北条氏邦
凡例 北条 氏邦 / 藤田 氏邦 | |
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時代 | 戦国時代 |
生誕 | 天文17年(1548年)[1][2] |
死没 | 慶長2年8月8日(1597年9月19日) |
改名 | 乙千代丸(幼名)→藤田氏邦→北条氏邦 |
別名 | 幼名:千代丸 仮名:新太郎 受領名:安房守 |
戒名 | 昌竜寺殿天室宗青大居士 |
主君 | 北条氏康→氏政→氏直 |
氏族 | 後北条氏→藤田氏→北条氏 |
父母 | 父:北条氏康、母:三山綱定の姉妹?[3][4] 養父:藤田康邦、義母:瑞渓院(今川氏親の娘) |
兄弟 | 新九郎、氏政、七曲殿、氏照、 尾崎殿、氏規、長林院殿、蔵春院殿、 氏邦、上杉景虎、浄光院殿、桂林院殿 義兄弟:靏松院(実父北条幻庵、吉良氏朝室)、法性院(実父遠山綱景、太田康資室) 用土重連、氏忠、氏光、藤田信吉 |
妻 | 正室:大福御前(藤田康邦の娘)[注釈 1] |
子 | 東国丸[注釈 2]、亀丸[注釈 3]、光福丸[注釈 4]、庄三郎、養子:直定 |
北条 氏邦(ほうじょう うじくに) / 藤田 氏邦(ふじた うじくに)は、戦国時代の武将。北条氏康の五男。
目次
1 生涯
2 その後
3 人物
4 偏諱を与えた人物
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 参考文献
7 関連項目
生涯
永禄元年(1558年)には武蔵北部の最大有力国衆の藤田氏の養子になったとされる[注釈 5]。
永禄11年(1568年)甲斐武田家との抗争が始まると新たな本拠として鉢形城を構築した。領国は鉢形領と称されるようになった[9]。
永禄12年(1569年)から開始された越相同盟の交渉において、かつて上杉家に従属経験のある由良成繁とその由良への指南役を務める氏邦がそれを取り纏める中心的な役割を果たした。元亀2年(1571年)同盟が破棄された後は上野の領国化をすすめる役割を果たした[10]。
天正4年(1576年)、安房守を名乗るようになる。安房守は、室町時代に上野守護職を歴任した山内上杉氏の歴代の名乗りであった。氏邦がそれを名乗ることは山内上杉家に代わり上野の国主になることを表明するものであった[9]。
天正6年(1578年)5月、上杉氏の家督争いである御館の乱が起こると弟の上杉景虎の援軍要請に応じた長兄氏政の名代として、次兄氏照と共に景虎支援のために越後に出陣。北条勢は三国峠を越えて坂戸城を指呼の間に望む樺沢城を奪取し、坂戸城攻略に着手した。しかし景勝方はよく守り、冬が近づいてきたこともあって、北条勢は樺沢城に氏邦・北条高広らを置き、北条景広を遊軍として残置しての撤退を強いられた。そして景虎は翌年滅亡という悲運を辿った。
天正8年(1580年)には織田氏に従属の表明の際、氏邦は負担として黄金3枚を負担している[11][12]。
天正10年(1582年)の本能寺の変後の神流川の戦いでは、甥で当主の氏直を補佐し滝川一益を壊走させている。直後の天正壬午の乱にも参戦している。
天正14年(1586年)頃に氏規を抜いて氏照に次ぐ地位に位置付けられている[注釈 6]。
天正10年7月までは藤田家を称していて[13]、それ以降から天正15年(1587年)11月までの間に北条姓に復姓している[14][15]。
天正11年もしくは12年頃に氏政の子直定を養子に迎えている[16]。
天正17年(1589年)、7月24日頃沼田領の請取が行われ、それを氏政は氏邦が管轄させ、氏邦はそれをさらに宿老でかつ沼田城代の経験もある猪俣邦憲に管轄させることにし、9月には猪俣邦憲は領域支配を開始させている[17]。
10月22日、真田家で留保されていた名胡桃城で内紛があり、中山九郎兵衛が城代鈴木主水を追放し、猪俣邦憲に加勢を求め、邦憲は軍勢を派遣した(名胡桃城奪取事件)[18]。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際には小田原城に籠もることに反対して大規模な野戦を主張したが容れられず、居城・鉢形城に籠もって抗戦する。
しかし、圧倒的な大軍を前に、上野・下野・武蔵北部を経略され、鉢形城を包囲されると、出家姿になり、藤田家の菩提寺正竜寺に蟄居して降伏・開城している[19]。戦後は攻撃の大将であった前田利家の家臣となり、慶長2年(1597年)、加賀金沢にて50歳で病没した。金沢で荼毘に付された後に、遺骸は武蔵正龍寺に移された。その時の大法要に集まった参列者はひと山を越える長さに及んだといわれ、かつての威勢と人望を偲ばせた。妻の大福御前は鉢形に残ったものの文禄2年5月10日(1593年6月9日)に病死したとも、自害したとも言われている。
その後
氏邦の死去後、利家は京都紫野大徳寺で喝食となっていた末子を召し出して北条庄三郎として還俗・元服させ、氏邦の知行を相続させた[20]。その後采女と通称を改め、前田家臣で前田家縁戚でもある前田利益の娘を妻とした[21]。その後、采女は死去し、子主殿助が家督を継ぐ。主殿助は正保4年(1647年)6月に病死した。男子がなかったため、知行は収公され、娘に5人扶持が与えられた[22][23]。一方、養子の直定は小田原開城後氏直らと共に高野山にて蟄居した後は徳川家康に仕え、紀州徳川家に家臣として付された。その子氏時より紀州徳川家に仕え、氏時の子氏常(うじつね)、養子氏成(うじなり/うじしげ)、氏賢(うじかた)まで確認できる[24]。
人物
次兄の氏照同様に武勇・統治に優れ、北関東の最前線、上野方面の軍事を任された。武田信玄との三増峠の戦いをはじめ各地を転戦し、いくつもの武功を挙げ、領土拡大に大きく貢献した。
短慮により北条氏の滅亡のきっかけとなったと言われる名胡桃事変の当事者(沼田城代猪俣邦憲の指揮官)であり、藤田家における義弟(養父・康邦(重利)の実子)の用土重連を謀殺したこともあって、非常に激しやすい性格と見なされることもある。同じく義弟(重連の実弟)にあたる藤田信吉は武田勝頼、上杉景勝に仕え、北条と敵対することになる。
武人としての名声に加えて、養蚕、林業などの殖産にも熱意を燃やし、大きな業績を残した。この時代の農業では食料生産を除くと、生糸こそ日本における各国の主要産業であった。氏邦は養蚕を北武蔵、上野の主要産業とすべく尽力し、生糸の一大拠点を築き上げた。鉢形城歴史館にて、氏邦の業績が展示されている。
偏諱を与えた人物
藤田康邦(養父、初名は重利、※氏邦を養子とした頃に改名しているので、逆に氏邦が康邦から「邦」の字を与えられている可能性もある。)
猪俣邦憲(家臣、沼田城代、初名は富永助盛)
脚注
注釈
^ 天文11年生まれで法名は貞心院殿花屋宗栄尼大姉[5][6]。
^ 天正11年3月に死去。法名東国寺雄山桃英[7][6]。
^ 次男亀丸は武将として生きていくことができず出家し鉄柱と称している[6]。
^ 天正15年生まれ。鉢形城落城後は旧臣町田氏に養育されたといわれ、慶長4年(1599年)7月15日死去。享年13。法名医王院殿寿林光福大童子[8][6]。
^ 当時すすめられていた上野経略のためには、その安定が必須であり、そのため氏康は氏邦を婿養子にしたとされる[4]。
^ 元亀2年(1571年)時点での兄弟の序列は養子でかつ年少の氏忠より低いものであったが天正10年(1582年)の時点では氏忠よりも上位に位置づけられている。氏規は嫡出で年長であった氏規よりも高い政治的地位に位置付けれることは通常ではありえない事態であり、この判断は「御隠居様」としてなお北条家最高権力者の地位にあった氏政の判断とされている。北条家の関東支配において、氏邦の担う役割の重要性を十分に認識し、氏邦の功績に鑑みて氏照の次点としたとされる。そのために、瑞渓院と養子縁組させたとする[9]。
出典
^ 「堀尾古記」
^ 黒田 2017, pp. 87、93.
^ 黒田 & 浅倉 2015.
- ^ ab黒田 2017, pp. 94.
^ 「正龍寺文書」「狭山藩史料一」所収北条系譜
- ^ abcd黒田 2005, pp. 166.
^ 「新編武蔵国風土記」
^ 「鉢形城之由来並町田家譜」
- ^ abc黒田 2017, pp. 96.
^ 黒田 2017, pp. 96、209-210.
^ 戦国遺文後北条氏編3334
^ 黒田 2018, pp. 148.
^ 「武州文書」戦国遺文後北条氏編2358
^ 「薄郷薬師堂鰐口銘写」戦国遺文後北条氏編3318
^ 黒田 2017, pp. 254.
^ 黒田 2017, pp. 257.
^ 黒田 2018, pp. 231-232.
^ 黒田 2018, pp. 232.
^ 黒田 2017, pp. 97.
^ 「利家夜話」
^ 「温故集録」
^ 「古組帳抜粋」
^ 黒田 2005, pp. 167-168.
^ 黒田 2005, pp. 218.
参考文献
- 黒田基樹 『戦国 北条一族』 新人物往来社、2005年9月。ISBN 4-404-03251-X。
黒田基樹; 浅倉直美編 『北条氏康の子供たち』 宮帯出版社、2015年。ISBN 978-4-8016-0017-1。
- 黒田基樹 『北条氏康の妻 瑞渓院 政略結婚から見る戦国大名』 平凡社〈中世から近世へ〉、2017年12月。ISBN 978-4-582-47736-8。
- 黒田基樹 『北条氏政 乾坤を截破し太虚に帰す』 ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本選評伝〉、2018年2月。ISBN 978-4-623-08235-3。
関連項目
天神山城 (武蔵国) - 氏邦が鉢形城に入城する前の居城