嶋田功
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嶋田功 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 北海道三石郡三石町 (現・日高郡新ひだか町) |
生年月日 | (1945-11-08) 1945年11月8日(73歳) |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会 |
所属厩舎 | 稲葉幸夫(1961年 - 1985年) フリー(1985年 - 引退) |
初免許年 | 1964年3月1日 |
免許区分 | 平地 |
騎手引退日 | 1988年2月28日 |
重賞勝利 | 52勝 |
G1級勝利 | 14勝 |
通算勝利 | 7327戦951勝 |
調教師情報 | |
初免許年 | 1988年(1989年開業 - 2012年廃業) |
重賞勝利 | 4勝 |
経歴 | |
所属 | 美浦T.C. |
嶋田 功(しまだ いさお、1945年11月8日 - )は、北海道三石郡三石町(現・日高郡新ひだか町)出身の元騎手・元調教師。騎手時代は優駿牝馬(オークス)通算5勝など牝馬限定競走で顕著な実績を残し、「牝馬の嶋田」「オークス男」等と称された。元騎手・元調教師の嶋田潤は実弟、元騎手の嶋田高宏は甥。騎手の嶋田純次との血縁関係はない。
目次
1 経歴
2 特徴・エピソード
3 通算成績
3.1 騎手成績
3.1.1 主な騎乗馬
4 調教師成績
4.1 主な管理馬
5 主な厩舎所属者
6 脚注
7 参考文献
8 外部リンク
経歴
プレクラスニー・タイセイアトムを輩出した「嶋田牧場」の三男として生まれ、3歳から馬に跨がっていた。揺りかご代わりにした馬の背で寝ていて泥田に落ちたこともあった。中学卒業後に上京して馬事公苑騎手養成長期課程へ入所し、修了後の1963年に東京・稲葉幸夫厩舎へ入門し、1964年3月1日に騎手免許を取得してデビュー。同期には菅原泰夫・松田博資。当時の表記は「島田功」であった。初年度は10勝に終わったが、2年目の1965年にはパナソニックで安田記念・七夕賞を勝利するなど大きく飛躍し、33勝を挙げて頭角を表す。その後も順調に勝利数を伸ばし、1968年には58勝を挙げて全国9位で初のベストテン入りを果たす。1969年には日本ダービーでタカツバキに騎乗し、当日は単勝支持率44.4%の1番人気に支持されるが、スタート直後の1周目スタンド前で落馬という散々な結果に終わった(優勝は6番人気のダイシンボルガード。大崎昭一騎乗)。嶋田は怪我こそ無かったものの、レース終了後の調整ルームで一人泣いていた。弟・潤がデビューした1970年からは戸籍どおり「嶋田」表記となり、1971年にはナスノカオリで桜花賞に優勝し、八大競走・クラシック競走初制覇。1972年にはタケフブキでオークスを勝つなど関東リーディングの首位を走っていたが、9月末の落馬事故により頭蓋骨骨折などの重傷を負って一時意識不明の重体となる。騎手生命を危ぶまれた事故であったが、4ヶ月半が経過した1973年2月に戦列へ復帰。5月にナスノチグサでオークス連覇を果たすと、タケホープに跨がった翌週のダービーではハイセイコーを破って優勝してしまう。タカツバキ事件の雪辱を果たしたが、10月の調教中に落馬して右脛を骨折、再度の長期療養となった。タケホープでの菊花賞臨戦直前の出来事であり、同馬には武邦彦が代打騎乗で勝利を収めている。4ヶ月の療養を経て1974年に復帰すると、5月5日にタケホープで天皇賞(春)を制覇、2週間後にはトウコウエルザで史上初・前人未到のオークス3連覇を達成。同一クラシック競走の3連覇は、1958年~1960年に皐月賞を3連覇した渡辺正人以来の快挙であった。1975年3月21日の中山第8競走で発走直前に他馬が暴れて嶋田の騎乗馬に衝突し、嶋田は左膝の靱帯断裂で3度目の休養を余儀なくされる。復帰後の1976年はテイタニヤで牝馬クラシック二冠を制し、秋にはアイフルで天皇賞(秋)にも優勝。オークスは怪我で1年空いたものの、騎乗機会4連勝という凄まじさで東京競馬記者クラブ賞特別賞を受賞。その後は1981年にテンモンでオークス5勝目を挙げ、1982年にはビクトリアクラウンでエリザベス女王杯を制した。騎手生活の晩年まで30勝前後を挙げる安定した成績を保っていたが、1988年に体力の限界を理由に騎手引退を発表。2月28日の東京第9競走をアイビートウコウで制し、最後の騎乗を勝利で飾った。通算7327戦951勝。
引退後は調教師に転身し、1989年に美浦トレーニングセンターにて厩舎を開業。初年度の12月に騎手生活最後の勝利を挙げたアイビートウコウでダービー卿チャレンジトロフィーを制し、調教師として重賞初勝利を挙げた。GI級競走の優勝は無かったが、1990年にワカタイショウで中山大障害(秋)(当時グレード外競走)を制している。
2012年11月20日、定年を待たず66歳で勇退した。
特徴・エピソード
「牝馬の嶋田」の異名の通り、史上最多記録であるオークス5勝を筆頭に、エリザベス女王杯の前身ビクトリアカップも含めて、騎手生活中に施行されていた牝馬限定の大競走は全て制した。端正な顔立ちで女性からの人気も高く、41歳のときに雑誌の読者投票で「グッドルッキングジョッキー」の第2位に選ばれている[1]。
「牝馬の嶋田」以外には「東京2400mのスペシャリスト」とも呼ばれ、「嶋田功専用走路がある」という冗談が言われたほどであった。このコースで行われるダービーをタケホープで初制覇した際には、競走前に「ハイセイコーが四ツ脚ならタケホープも四ツ脚だよ」と発言、当初は負け惜しみの冗談と受け取られたが、優勝したことで逸話として語られるようになった。この時、ハイセイコーのファンであった嶋田の息子が「ハイセイコーが負けちゃった。どうしてママ」と母親(=嶋田の妻)に泣き付いたという話も伝えられている[2]。
度重なる落馬がなければ通算1000勝は確実であり、リーディングジョッキー獲得も有り得る騎手であったと評される[注 1][注 2]。数々の騎乗馬の中ではグリーングラス、タケホープなどを最強馬として挙げているが[3]、牝馬に限れば、台風による被災で早期引退を余儀なくされたテンモンと断言しており、「無事ならトウメイより上」と語っている[3]。
嶋田は引退時の優駿1988年4月号の記事内で「1969年のタカツバキ騎乗の際の落馬後(この雪辱を果たすため)、リーディングジョッキーの地位も要らない。1000勝も要らない。俺は必ずダービージョッキーになってやる!と思った」と語っていた。また「(落馬の多さから)五体満足ではなかったこともある。例えばアバラ骨は10何本も(現役の頃に)折ったしね」とも発していた。この他にも「一番悔しかったのがリンドブルバンに騎乗してカツラノハイセイコに敗れた東京優駿惜敗。(3着に入線した西浦勝一騎乗の)テルテンリュウの斜行の影響を受けたのもあったが」と1979年の東京優駿の敗戦を悔しがっていたことも回顧していた。
通算成績
騎手成績
通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 |
---|---|---|---|---|---|---|
平地 | 951 | 869 | 795 | 7324 | .130 | .248 |
障害 | 0 | 1 | 0 | 3 | .000 | .333 |
計 | 951 | 870 | 795 | 7327 | .130 | .249 |
日付 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初騎乗 | 1964年3月1日 | - | ハヤカグラ | - | - | 9着 |
初勝利 | 1964年5月31日 | - | ハヤカゼ | - | - | 1着 |
重賞初騎乗 | 1965年2月21日 | 京王杯スプリングHC | パナソニツク | 12頭 | 4 | 3着 |
重賞初勝利 | 1965年6月6日 | 安田記念 | パナソニツク | 10頭 | 3 | 1着 |
GI級初騎乗 | 1966年5月22日 | 優駿牝馬 | ウインジエスト | 16頭 | 14 | 12着 |
GI級初勝利 | 1971年4月18日 | 桜花賞 | ナスノカオリ | 25頭 | 1 | 1着 |
- 全国リーディング最高5位(1978年48勝、1979年51勝、1982年58勝)
主な騎乗馬
※括弧内は嶋田騎乗時の優勝重賞競走。太字はGI級競走(安田記念除く)。
パナソニック(1965年安田記念、七夕賞)- アマノガワ(1968年クモハタ記念 1969年関屋記念、新潟記念)
ナスノカオリ(1971年桜花賞、サンスポ賞4歳牝馬特別)
タケフブキ(1972年優駿牝馬)
ナスノチグサ(1973年優駿牝馬 1974年新潟記念 1975年京王杯オータムハンデキャップ)
タケホープ(1973年東京優駿、天皇賞・春)
トウコウエルザ(1974年優駿牝馬、ビクトリアカップ、クイーンステークス)
テイタニヤ(1976年桜花賞、優駿牝馬、クイーンカップ)
アイフル(1976年天皇賞・秋、アルゼンチン共和国杯 1977年中山記念、アルゼンチン共和国杯)
グリーングラス(1977年 日本経済賞)
ビンゴガルー(1978年 朝日杯3歳ステークス)
テンモン(1980年朝日杯3歳ステークス 1981年優駿牝馬、京成杯)
ビクトリアクラウン(1981年新潟3歳ステークス 1982年エリザベス女王杯、クイーンカップ、クイーンステークス)
ホスピタリテイ(1982年セントライト記念)
タカラテンリュウ(1983年東京新聞杯、ダイヤモンドステークス、毎日王冠)
マウントニゾン(1987年目黒記念、ステイヤーズステークス)
シノクロス(1987年京成杯3歳ステークス、テレビ東京賞3歳牝馬ステークス)
調教師成績
日付 | 競馬場・開催 | 競走名 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
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初出走 | 1989年3月5日 | 2回中山4日8R | 4歳上400万下 | ダビンチ | 16頭 | 15 | 10着 |
初勝利 | 1989年3月25日 | 3回中山1日10R | もくれん賞 | アクアビット | 16頭 | 5 | 1着 |
重賞初出走 | 1989年3月5日 | 2回中山4日11R | 弥生賞 | アクアビット | 16頭 | 13 | 5着 |
重賞初勝利 | 1989年6月4日 | 3回東京6日11R | ニュージーランドトロフィー4歳S | アクアビット | 16頭 | 7 | 1着 |
GI初出走 | 1989年4月16日 | 3回中山8日10R | 皐月賞 | アクアビット | 20頭 | 9 | 10着 |
優秀調教師賞(関東)2回(1989年、1990年)
主な管理馬
- アイビートウコウ(1989年ダービー卿チャレンジトロフィー)
- アクアビット(1989年ニュージーランドトロフィー4歳ステークス)
ワカタイショウ(1990年中山大障害・秋)- ダイワデュール(2003年東京ハイジャンプ)
主な厩舎所属者
※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。
高市圭二(1990年-1996年 調教助手)
小島茂之(1993年-1994年 厩務員)
谷中公一(1997年-1998年 騎手)
脚注
^ 文筆家の寺山修司は、「落馬事故がなければ、嶋田はとっくにリーディングジョッキーになっていた男である」と評している。(寺山 p.224)
^ 競馬ライターの江面弘也は、「落馬事故が少なければ楽に1000勝に到達できただろうし、もっと多くのビッグレースに勝ち、リーディングジョッキーにも手が届いていたかも知れない」と評している。
^ 『優駿』2008年8月号 p.126
^ 『Number PLUS』 p.98
- ^ ab『Number PLUS』 p.23
参考文献
- 寺山修司『競馬への望郷(文庫版)』(角川文庫、1992年)
- 『Sports Graphic Number PLUS』(文藝春秋、1999年)
- 『優駿』2008年8月号(日本中央競馬会、2008年)
外部リンク
伝説のジョッキー 第9回 不屈のオークス男 嶋田 功 - JRAホームページ
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