水野雄仁
読売ジャイアンツ 投手コーチ #71 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 徳島県阿南市 |
生年月日 | (1965-09-03) 1965年9月3日(53歳) |
身長 体重 | 178 cm 82 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1983年 ドラフト1位 |
初出場 | 1984年5月22日 |
最終出場 | 1996年10月22日(日本シリーズ第3戦) |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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水野 雄仁(みずの かつひと、1965年9月3日 - )は、徳島県阿南市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)・コーチ、野球解説者(所属事務所:有限会社オフィスウィン)。
目次
1 経歴
2 エピソード
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 記録
3.3 背番号
4 関連情報
4.1 現在の出演番組
4.2 過去の出演番組
4.3 CM出演
5 脚注
6 関連項目
7 外部リンク
経歴
1965年9月、阿南市宝田町の餡屋の息子として生まれる。1972年7月、阿南市立宝田小学校1年時に、少年野球チーム・宝田ダックスに入部。1976年、小学5年時から投手になる。阿南市立阿南第一中学校卒業。
徳島県立池田高等学校時代は、1982年・1983年夏の全国高等学校野球選手権大会、1983年春の選抜高等学校野球大会と3季連続で甲子園大会に出場。82年夏・83年春における史上4校目の「夏・春連続制覇」、1983年夏のベスト4進出の中心選手として活躍した。83年春・夏はエース・4番として出場、その風貌も相まって、彼のニックネームに「阿波の金太郎」とも呼ばれていた。
82年の夏の選手権では左翼手として出場、中軸を打ち、優勝に貢献した。荒木大輔を擁する早稲田実業学校との準々決勝では、終盤に満塁本塁打を放った。この試合で甲子園初登板も果している。翌83年夏は史上初の夏春夏の3連覇を目指して、第65回甲子園大会に出場。準々決勝の中京戦での野中徹博との投手戦は、1980年代を代表する好ゲームとしてファンに記憶されている。準決勝では1年生桑田真澄・清原和博のKKコンビ率いるPL学園に7対0で屈した。清原からは4三振を奪うも、桑田には左翼スタンドへの特大の本塁打を喫している(このときの桑田の本塁打が水野の甲子園での初被弾である)[1]。
1983年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから1位指名を受けて入団。背番号は「31」となり、現役時代には背番号の変化はないままだった。2年目に肩を痛めてしまい、棒を振ってしまった。1986年には一軍に定着して8勝をマークし、翌年の1987年には10勝をあげ、王監督初のリーグ優勝に貢献した。
藤田元司、長嶋茂雄両監督時代は中継ぎ、抑えとして活躍。特に藤田監督時代は、先発完投主義の中で希少なリリーフエースとして孤軍奮闘した。バッターとしても、オープン間もない東京ドームで開催された1988年のオールスターゲーム第3戦で、延長12回に代打として登場し、サヨナラ犠牲フライを放っている。しかし、9年目に右肘の遊離軟骨で苦しむなど常に怪我との戦いで1996年限りで一度引退。
1997年にはフジテレビ・スポーツ報知の野球解説者を務めた。同年秋、メジャーリーグでの現役復帰を目指して、ドミニカのウィンターリーグに参加し、日本人初の勝利投手となった。
「現役時代の球速を少しずつ取り戻しつつある」などと言われもした[2]。翌1998年、サンディエゴ・パドレスのスプリング・キャンプに参加したがメジャー昇格はならず、正式に現役引退を表明し、帰国。
その後は再びフジテレビ・ニッポン放送・スポーツ報知の野球解説者を務めた後、1999年、巨人に投手コーチとして復帰し、2001年退団。現在は日本テレビ、アール・エフ・ラジオ日本、スポーツ報知野球解説者。RFラジオ日本で月曜夜8時から放送中の『水野雄仁のGスタジアム』のMCを担当している。
2007年より静岡県セイブ自動車学校のCMに出演している(静岡及び東海地区ローカル)。父親が静岡県出身で、さらに叔父が同校の教官(2016年現在、顧問)をしていることから起用された(CMでは「おじさん」と共演している)。2009年には第24回地方CM大賞に選ばれた。
2018年8月11日(祝日・山の日)、第100回全国高等学校野球選手権記念大会の第7日目、レジェンド始球式へ久々に阪神甲子園球場のマウンドに登場した[3]。
2018年10月22日、2019年から巨人の一軍投手コーチに就任することが発表された。2001年に退任して以来18年ぶりの巨人復帰となる[4]。
エピソード
この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2011年7月) |
- 池田高校で優勝した際にはテレビで同校の特集番組が組まれた。当時の蔦文也監督の指導により、選手の上半身強化が徹底されていたこともあり水野が重いバーベルを軽々と持ち上げ、後輩に「これぐらい持てんとホームラン打てへん」と豪語したり、練習終了後は近所のドライブインで、牛ステーキ、豚カツ食べ放題と言い放ったりという姿が放送された。
- 水野は池田野球について以下のようにインタビューで答えている。池田の練習は毎日授業を終えた15時から3時間、みっちりバッティング練習をして、残り30分だけノック(守備練習)。キャッチボールする時間は無駄だ、とウォーミングアップもしないで、いきなりフリーバッティングが始まり、守りに付いた野手が1塁へ投げて肩を作れ、と。また「当時は金属バットが導入されて8年目ぐらいの頃で、ウェイトトレーニングを取り入れている学校はあまりなかったと思いますが、僕らは積極的に取り入れて打撃を強化していました。特に冬場はよくやりました。また毎日、野球部寮の裏手にある後援会副会長が営むレストランで、当たり前のように食べたいだけ肉を食べさせてもらっていました[5]。それで良質な筋肉が作られていったと思います。蔦さんはいろんなことにチャレンジする監督で、ちょうど地元の企業だった大塚製薬がポカリスエットを販売し始めた頃で、僕らはモデル校みたいな感じで練習中にポカリスエットや試供品のカロリーメイトを体にいいからと飲まされていました[5]。バットに関しては、社会人野球のチームだったと思うんですが『凄く打球音がよくて飛ぶバットだ』ということでいち早くゼットパワーを取り入れて、結果的に強力打線を生み出しました」[6]。
第64回大会での全国制覇については「決勝で昔ながらの緻密な野球をする広島商業を相手に12-2の大勝だったので、余計にみなさんは『強打・池田』の印象を強くし「新しい時代の流れを感じた」とよく言ってくれます」。早稲田実業戦については「池田の紅白戦は畠山準さんと僕が投げていたのでチームメイトも荒木大輔さんのストレートが速いと感じなかったはずです。僕は畠山さんを目標として努力していただけに、荒木さんより畠山さんの評価が低いというのが、どうしても許せなかった」。
第65回大会については「3回戦の広島商業戦で頭にデッドボールを食らって、その後はあまり覚えていないんです。準決勝の相手PL学園は完全にノーマークで、ここは流して、いざ決勝という慢心があった。でも今考えれば、いい相手に負けましたよ。野球の神様が流れを作っているんだろうとすごく感じた。KKコンビのPL学園が勝ち続けたことによって、より池田の輝きは増したと思いますから」「高校を卒業して四半世紀以上が経つというのに甲子園関連の取材がない年はありません。改めて池田はそれだけ強い印象を残したチームだったんだなあと思うんです」などと話している[6]。また、先にPL学園戦に負けたのは、広島商戦で受けた死球の影響がピークに達していたからではとの見方が強かったが、本人は後年「中1日の中京戦では1失点完投だったから影響はなかったと思う。PL戦に関しては、気のゆるみもあり準備ができていなかったのかもしれません。マークしていた清原は、4打数4三振に抑えていますしね。」[7]と決して死球のせいではないと振り返っている。- 現役時代の1985年に門限過ぎの飲酒を『フォーカス』に掲載された。故障療養中でしかも未成年の時点での不祥事ということもあり、謹慎処分を受けた。この時に槙原寛己は何度か「おーい、生きてるか?」と茶化した。また、寮の非常階段に有刺鉄線が張られたのは水野らの夜遊びの度が過ぎたのが主な原因だったのだが、その水野が自ら「巨人軍は火事があったら大変だ」と消防署に電話したために有刺鉄線は撤去されたと槙原は語っている[8]。
- 水野より1歳上で同じく高校3年で読売ジャイアンツにドラフト1位で指名されプロ入りした斎藤雅樹は1989年、1990年連続20勝記録したが、両年とも20勝目を挙げた試合は水野がセーブを記録した。
- 入団当初はワールドペガサスの用具を使用していたが、のちに名前と同じミズノに替えている。
1990年5月24日のナゴヤ球場での対中日ドラゴンズ戦で槙原がバンス・ローに頭部付近投球を与えたことが発端で乱闘になった。水野は乱闘に割って入った際、当時中日の監督であった星野仙一の張り手で顔面を殴打されている。ちなみにこの乱闘では、中日側のベニー・ディステファーノ1人が暴力行為により退場処分を受けた。- 投手コーチ時代、年上の現役選手工藤公康からは「水野ちゃん」と呼ばれていた。同じく年上の槙原は茶化す意味でワザと「水野コーチ」と呼んでいた。
- 解説等での一人称は主に「私(わたし)」を用いる。また、「投げれる」といった"ら抜け言葉"を多用する傾向にある。解説者としては比較的厳しいコメントをすることが多く、2015年4月5日の巨人阪神戦で、一緒に試合中継を担当した日本テレビの辻岡義堂アナウンサーが、阿部慎之助の入団年度やタイトル獲得の回数、野球の国際大会におけるルールの違いなど、勘違いなどで誤実況を連発したが、その際水野は試合中継の最中であったにも関わらず辻岡アナウンサーを痛烈に批判した[9]。それ以外にも、ミスをした選手などを「努力不足」「勝つという意識が足りない」と批判することもある。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
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1984 | 巨人 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 55 | 10.2 | 15 | 2 | 9 | 0 | 0 | 9 | 0 | 0 | 8 | 8 | 6.75 | 2.25 |
1986 | 26 | 16 | 2 | 0 | 1 | 8 | 6 | 1 | -- | .571 | 436 | 100.1 | 100 | 10 | 40 | 8 | 2 | 95 | 5 | 0 | 43 | 40 | 3.59 | 1.40 | |
1987 | 24 | 16 | 2 | 1 | 1 | 10 | 4 | 0 | -- | .714 | 428 | 107.0 | 98 | 12 | 20 | 1 | 1 | 82 | 4 | 0 | 40 | 31 | 2.61 | 1.10 | |
1988 | 23 | 18 | 3 | 1 | 0 | 6 | 6 | 1 | -- | .500 | 488 | 117.0 | 108 | 11 | 35 | 7 | 4 | 89 | 1 | 0 | 46 | 42 | 3.23 | 1.22 | |
1989 | 15 | 8 | 0 | 0 | 0 | 2 | 5 | 1 | -- | .286 | 251 | 63.1 | 50 | 6 | 14 | 0 | 3 | 57 | 1 | 0 | 25 | 24 | 3.41 | 1.01 | |
1990 | 34 | 1 | 0 | 0 | 0 | 2 | 2 | 11 | -- | .500 | 263 | 68.2 | 46 | 2 | 14 | 3 | 2 | 64 | 0 | 0 | 16 | 15 | 1.97 | 0.87 | |
1991 | 31 | 0 | 0 | 0 | 0 | 5 | 2 | 3 | -- | .714 | 191 | 50.1 | 40 | 6 | 8 | 3 | 1 | 30 | 0 | 0 | 14 | 12 | 2.15 | 0.95 | |
1993 | 43 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 1 | 0 | -- | .500 | 239 | 60.2 | 53 | 1 | 14 | 0 | 0 | 36 | 3 | 0 | 22 | 19 | 2.82 | 1.10 | |
1994 | 27 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 0 | -- | .333 | 151 | 35.2 | 40 | 4 | 10 | 3 | 0 | 22 | 1 | 0 | 21 | 20 | 5.05 | 1.40 | |
1995 | 25 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 138 | 32.0 | 24 | 3 | 18 | 1 | 2 | 28 | 3 | 1 | 14 | 11 | 3.09 | 1.31 | |
1996 | 10 | 0 | 0 | 0 | 0 | 2 | 0 | 0 | -- | 1.000 | 57 | 14.1 | 9 | 1 | 7 | 1 | 0 | 7 | 0 | 0 | 5 | 5 | 3.14 | 1.12 | |
通算:11年 | 265 | 59 | 7 | 2 | 2 | 39 | 29 | 17 | -- | .574 | 2697 | 660.0 | 583 | 58 | 189 | 27 | 15 | 519 | 18 | 1 | 254 | 227 | 3.10 | 1.17 |
記録
- 初記録
- 初登板:1984年5月22日、対阪神タイガース10回戦(後楽園球場)、8回表に3番手で救援登板、1回無失点
- 初奪三振:同上、8回表に渡辺長助から
- 初先発登板:1986年5月18日、対ヤクルトスワローズ7回戦(後楽園球場)、5回1/3を2失点で敗戦投手
- 初勝利・初先発勝利:1986年5月25日、対中日ドラゴンズ7回戦(ナゴヤ球場)、7回1失点
- 初完投勝利:1986年6月21日、対横浜大洋ホエールズ13回戦(横浜スタジアム)、9回2失点
- 初セーブ:1986年7月26日、対中日ドラゴンズ17回戦(ナゴヤ球場)、10回裏2死に8番手で救援登板・完了、1/3回無失点
- 初完封勝利:1987年10月12日、対広島東洋カープ25回戦(広島市民球場)
- その他の記録
オールスターゲーム出場:1回 (1988年)
背番号
31 (1984年 - 1996年)
71 (1999年 - 2001年、2019年 - )
関連情報
現在の出演番組
Fun!BASEBALL!!(日本テレビ系野球中継のタイトル)
水野雄仁のGスタジアム(ラジオ日本)- ラジオ日本ジャイアンツナイター
過去の出演番組
プロ野球中継(フジテレビ系)
プロ野球ニュース(同上)- ニッポン放送ショウアップナイター
CM出演
- 静岡県セイブ自動車学校(静岡県浜松市)[10]
脚注
^ 私のベストゲーム(桑田真澄著)
^ 1998年日刊スポーツ発行プロ野球選手写真名鑑
^ 水野雄仁氏始球式 蔦監督の言葉引用し球児にエール日刊スポーツ 2018年8月11日
^ 巨人が来季コーチ陣発表 1軍は元木氏、宮本氏ら入閣 23日に原、高橋新旧監督そろって会見へスポーツニッポン 2018年10月22日
- ^ ab“【甲子園V腕座談会】(2)池田が打てた本当の理由”. スポーツ報知. 2015年8月11日閲覧。[リンク切れ]
- ^ ab別冊宝島1644 名門野球部の甲子園伝説 伝説のチーム編 2009年、宝島社、p3-7
^ 『高校野球思い出の名勝負30+1夏』 ベースボールマガジン社刊 p9
^ 元巨人・槙原氏が告白 “プロ生活20年間ずっと・・・・・・”(TBS「ジョブチューン~アノ職業のヒミツぶっちゃけます!」2013年5月11日放送分より)
^ “巨人阪神戦 実況アナとやり合った水野雄仁氏の怖すぎる解説”. NEWSポストセブン (2015年4月14日). 2017年11月23日閲覧。
^ CMギャラリー〜運転免許、合宿免許のセイブ自動車学校
関連項目
- 徳島県出身の人物一覧
- 読売ジャイアンツの選手一覧
梅澤廉 - 日本テレビアナウンサー。甥にあたる。
外部リンク
個人年度別成績 水野雄仁 - NPB.jp 日本野球機構- 水野雄仁 オフィシャルサイト
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