川相昌弘

























































川相 昌弘

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基本情報
国籍
日本の旗 日本
出身地
岡山県岡山市南区
生年月日
(1964-09-27) 1964年9月27日(54歳)
身長
体重

176 cm
75 kg
選手情報
投球・打席
右投右打
ポジション
遊撃手、三塁手、二塁手、外野手、一塁手[1]
プロ入り
1982年 ドラフト4位
初出場
1984年4月24日
最終出場
2006年10月26日(日本シリーズ第5戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴




  • 岡山県立岡山南高等学校


  • 読売ジャイアンツ (1983 - 2003)


  • 中日ドラゴンズ (2004 - 2006)




監督・コーチ歴




  • 中日ドラゴンズ (2007 - 2010)

  • 読売ジャイアンツ (2011 - 2018)




川相 昌弘(かわい まさひろ、1964年9月27日 - )は、岡山県岡山市南区出身の元プロ野球選手(内野手、右投右打)・コーチ、野球解説者、野球評論家。


現役時代は読売ジャイアンツ(巨人)、中日ドラゴンズで活躍。通算533本の犠牲バントは世界記録で、通算犠打成功率は9割を超え、「バント職人」「バントの神様」の異名を持つ。ゴールデングラブ賞6回受賞の守備力を誇る遊撃手でもあった。次男は2015年から2017年まで巨人に所属した川相拓也である。


愛称はしわが多く老け顔だったことと「和製オジー・スミス」に引っ掛けて「ジイ」。あるいは、「人生送りバント」と表現する者もいる。




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 高校時代


    • 1.2 巨人時代


    • 1.3 中日時代


    • 1.4 現役引退後




  • 2 選手としての特徴


    • 2.1 バント技術




  • 3 詳細情報


    • 3.1 年度別打撃成績


    • 3.2 表彰


    • 3.3 記録


    • 3.4 通算監督成績


    • 3.5 背番号


    • 3.6 代表歴




  • 4 関連情報


    • 4.1 現在の出演番組


    • 4.2 過去の出演番組


    • 4.3 著書


    • 4.4 関連書籍




  • 5 脚注


    • 5.1 注釈


    • 5.2 出典




  • 6 関連項目


  • 7 外部リンク





経歴



高校時代


岡山市立第二藤田小学校、藤田中学校から岡山県立岡山南高等学校へ入学。岡山南高では投手として活躍し、1981年の第63回全国高等学校野球選手権大会と1982年の第54回選抜高等学校野球大会の2回、甲子園に出場した。1982年の春は主将も務め、2回戦で早稲田実と対戦。敗れはしたものの、荒木大輔と互角の投手戦を演じた。その年の夏も甲子園出場を期待されていたが、岡山大会の準決勝で岡山東商に敗れ、最後の夏は甲子園に出場できなかった。この時、岡山東商の4番を打っていたのが、当時2年生の八木裕だった。



巨人時代


1982年のドラフト会議で巨人に4位指名を受け入団。背番号は60


高校時代はエースで主軸打者を務めており、投手としての指名だったが、入団直後に野手へ転向。1983年は二軍生活だったが、二軍コーチだった須藤豊の熱心な指導により徐々に才能が開花。1984年に守備力が王貞治監督の目に留まり一軍に初昇格。1985年から守備要員として一軍に定着し、プロ初犠打を同年6月13日の対ヤクルトスワローズ12回戦(福井県営球場)の7回裏、阿井英二郎から決めた。


1987年のリーグ優勝には内外野の守備固め要員として貢献した。1987年の日本シリーズで、秋山幸二の単打を捕球した中堅手ウォーレン・クロマティが緩慢な送球を返し、一塁走者の辻発彦に一気にホームインされたプレーの時に返球を受けていたのが川相だった。クロマティの動きに対する批判が多かったが、川相は「クロマティのプレーを頭に入れておかなかった自分のミス」と語り、悔しさを口にした。西武の三塁コーチだった伊原春樹も、川相が先頭の走者ではなく打者走者を見る癖があったのがポイントだったと語っている。後の1994年の西武とのオープン戦で、二塁走者だった川相は、次打者のセンターフライを佐々木誠が後ろ向きで捕球したのを見ると、猛然とタッチアップでスタートし、西武の緩慢な中継のスキを突いて本塁を落とし入れた。川相は後に、上記のプレーの反省が頭にあったと述べている。
王監督時代、当時の巨人は引退した河埜和正の後を継ぐ遊撃手の定位置の座を、岡崎郁と西武から移籍した鴻野淳基の2人が争っていたが、守備力を武器に勝呂博憲も台頭し、競争は激しさを増していた。この頃、スイッチヒッターに挑戦し、登録上も両打ちになっていたが、結局は右打ちに戻している。


1989年、背番号を「0」に変更。巨人では球団史上初の0番であった[注釈 1]。この年藤田元司が監督に復帰すると、第4の存在だった川相と緒方耕一が台頭する。レギュラーに定着したのは、打撃面で伸び悩み、守備要員としても守備位置が一定せず外野手での出場が6割を占めていたこともあった川相であった。なかなか定着しなかった当時の巨人の遊撃手候補は、一軍レベルで見ると遊撃手としてはやや足に難のあった岡崎、打力で川相以上に伸び悩む勝呂、即戦力要員ながら結果が出ず守備も不安があった鴻野と、他のメンバーに一長一短があったという事情もあったが、川相は持ち前の守備能力や確実性のある小技を磨き、絶対的な巨人の2番・遊撃の座を勝ち取った。後半戦、手に死球を受けて骨折して規定打席には届かなかったものの、自己最多の98試合に出場し、初のゴールデングラブ賞を受賞した。


1990年、阪神の和田豊の年間犠打記録を抜き、58犠打のプロ野球新記録を樹立。また、自身初となる規定打席にも到達し、打率.288の好成績をマークした。


翌1991年には66犠打を記録し、自身の年間犠打新記録を更新する(現在のプロ野球記録は、2001年に宮本慎也が記録した67犠打)。1989年から1991年まで3年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。2番打者、遊撃手としての地位を完全に確立した。


1992年もレギュラーとして活躍していたが、怪我のため戦線離脱し、規定打席には届かなかった。


この時期について、藤田は、「楽をしたくなる気持ち(もあるであろう)自分自身と戦っている時間の長さが川相と普通の選手の違いになっている」「川相のような選手が多くなればチームは強くなる」など、巨人監督退任直後の自著『藤田前監督 巨人軍を語る』で賞賛している[2]


1993年からは長嶋茂雄が巨人監督に復帰したが、2番遊撃手として変わらずレギュラーで活躍。4年連続でリーグ最多犠打を記録し、打率もチームトップの.290をマークした。また、同年8月14日には中日の今中慎二からプロ入り初のサヨナラ本塁打を放った。2年ぶりのゴールデングラブ賞も奪還した。


1994年も安定した活躍を見せ、自身初となる打率3割を記録し、リーグ優勝に大きく貢献した。ゴールデングラブ賞に合わせて、こちらも自身初となるベストナインを受賞した。守備・打撃の両面で1990年代を代表する選手の一人にまで成長した。同年10月1日の対ヤクルト戦で決勝打を放ち、試合後のヒーローインタビューで子供たちの名前(当時は二男一女)を叫び、話題となった[3]。また、10.8決戦では、3回に安打で出塁した後に生還し決勝点となる得点を記録、9回にバックスクリーンを直撃する打球を放つが、三塁打の判定となり長嶋監督が猛抗議するも受け入れられず、結局この年の本塁打は0本だった。


1996年から1998年まで巨人の選手会長を務め、名実ともに巨人の顔となった。1996年には札幌・円山球場でプロ入り初の満塁本塁打を放ち、メークドラマの実現に大きく貢献した。しかし、長嶋監督が清水隆行を2番に据えるなど攻撃的な野球を標榜したため、7番や8番を打つ機会も増えてきた。元木大介や仁志敏久の台頭もあり、1997年が規定打席到達の最後のシーズンとなった。1998年には平野謙の記録を抜き、通算452犠打のプロ野球新記録を樹立した。


1999年には大型遊撃手の二岡智宏の加入により出場機会は減少したものの、守備要員・バント要員で依然チームに欠かせない存在だった。遊撃手での出場機会が大幅に減り、三塁手での出場が中心になる。2000年より、同い年の石井浩郎の退団に伴って空いた6番に背番号を変更。


しかし、二岡が完全にレギュラー遊撃手として固まり、江藤智の入団などもあり、2000年から2001年にかけては出場機会が代打や守備固めに限られていく。2001年5月16日に阪神の井川慶から3年ぶりとなる本塁打を代打で記録し、5月23日には史上132人目となる1500試合出場も達成した。また、2001年には同世代の村田真一・槙原寛己・斎藤雅樹の3人が引退したが、川相は現役にこだわった。


2002年から原辰徳が監督に就任。原は巨人のレギュラーとして闘った旧知の仲であり、スタメンでの出場機会も増え、お立ち台に2度も上がるなど就任1年目でのリーグ優勝に貢献した。


翌2003年8月20日には東京ドームで通算512犠打を達成し、エディ・コリンズのMLB記録を超え[4]、ギネス世界記録にも認定された[5]。なお、この犠打を決めた時、川相の右足が打席から出ていた、という写真が『巨人軍5000勝の記憶』にも掲載された。


同年、現役引退を表明。9月21日の引退試合では2番・二塁手としてスタメン出場、第3打席でセンター前ヒットを放ち、代走を送られて退いた。引退後は一軍コーチ就任が内定していたが、直後に発生した原の辞任により、しばらく宙ぶらりん状態が続いた。混乱の後に球団から二軍コーチ就任を言い渡されたが、引退を撤回し巨人を「退団」。1998年に川相自身に対してヘッドコーチとして理不尽な暴力をふるったと噂されている堀内恒夫の監督就任も退団の大きな要因と言われている(著書では否定)。


直後、元同僚の落合博満が監督に就任した中日ドラゴンズに入団テストを経て移籍。



中日時代


自身と同じ遊撃手で、球団史上最多通算本塁打記録を持つ宇野勝がつけていた背番号7を与えられたことからも、川相に対する期待の大きさが窺える[注釈 2]


2004年は落合監督の「一芸に秀でている選手を使う」という采配に合致する活躍を見せ、地味ながらも代打バント・守備要員として存在感を発揮。サヨナラヒットを2本打つなど、中日のリーグ優勝に大きく貢献した。移籍後初めて巨人戦に代打出場してバントを決めたことや、札幌ドームで佐藤宏志から本塁打を打ったことで、古巣・巨人の応援席を含めて球場全体から歓声が沸き起こったこともあった。同年の日本シリーズ第2戦では、9回表から主軸の立浪和義に代わる守備固めで三塁の守備に就き、無死無走者で赤田将吾が岩瀬仁紀から放ったゴロを一塁に送球した。


2005年、出場機会は減少したものの、守備に衰えが見えていた立浪に代わる三塁の守備固めや代打として活躍した。


2006年には球界初の「メンタルアドバイザー」に就任。コーチの肩書では会議に出席する必要があるので、あくまで相談役というポジションに落ち着いた。チームが勝っている試合で8・9回辺りから主に立浪の守備固めとして出場することが多かったが、荒木雅博の怪我などで5月には「2番・二塁手」としてスタメン起用された。しかし、森野将彦が怪我から復帰しスタメン獲得、立浪が代打要員となり、代走・守備要員として奈良原浩をトレード獲得、7月頃に荒木が復帰したことから出場機会がなくなり、球宴直前に登録抹消。その後は一軍に帯同しながら、メンタルアドバイザーとして裏方からリーグ優勝に貢献した。中日スポーツで毎週月曜日に「明日への送りバント」という題名で寄稿もしていた。


10月13日、来季の選手契約を結ばない方針と一軍コーチ就任要請を球団から伝えられて現役引退を表明。翌年(実質的には同年オフのキャンプ時)から中日一軍の内野守備走塁コーチに就任することも発表された。10月15日、ナゴヤドームでのシーズン最終戦の横浜戦は川相の引退試合として、2番・三塁手でスタメン出場。1打席目は安打、2打席目では送りバントを三塁線に決め、観客から大きな拍手が送られた。7回には1イニングだけ、慣れ親しんだ遊撃の守備にも就く。この日の犠打で通算533犠打となり、自身が持つ記録を更新。試合終了後はチームメイトから胴上げされ、挨拶では「24年間の選手生活の中で、中日での3年間が最高だった。日本シリーズを花道にしたい」と語った。2006年の日本シリーズでは第5戦に代打で登場。最後の送りバントを決め、有終の美を飾った。川相の引退により、1964年度生まれのプロ野球選手は全員がユニフォームを脱いだ。



現役引退後


2007年シーズンからは中日ドラゴンズ一軍内野守備・走塁コーチに就任。公式戦では一塁コーチスボックスに立っていた。オープン戦では経験を積む為、三塁コーチスボックスに立っていることもあった。2010年シーズンは二軍監督を務めるが、同年限りで突然の退団通告を受けた。


2011年からは古巣巨人で二軍監督を務めることとなり、巨人には8年振りの復帰となった。超重量打線と呼ばれる巨人の打撃陣にも、積極的にバントをさせると宣言。その言葉通り、チームの犠打数は2010年の33から135と約4倍に、盗塁数も60から152と大幅に増加した。本塁打数はリーグ最少ながら、確率を求めた細かい野球によってチームを牽引した[6]。12月9日、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される[7]。2012年も二軍監督を務め、日本シリーズではコーチ登録されベンチ入りした(代わりに橋上秀樹戦略コーチが登録から外れた)。


2013年シーズンより、巨人の一軍ヘッドコーチに就任。3月のオープン戦では、ワールド・ベースボール・クラシック準決勝に進出した日本を応援するため渡米した原監督に代わって、監督代行として指揮を執った。また、2014年5月5日と2015年4月15日から19日の合計6試合においても、欠場した原監督の代行を務めた。


2015年10月にサンケイスポーツが巨人の後任監督として検討されていると報道された[8](実際監督に就任したのは高橋由伸)。


2016年シーズンより、三軍監督に就任。


2017年、11月25日から台湾で開催されるアジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の監督を務める[9]。球団から、2018年シーズンの二軍監督への配置転換が発表された。


2018年、9月18日イースタン・リーグの優勝を達成(2015年からイースタン・リーグ4連覇達成)。10月7日、フェニックスリーグ戦の前日に球団からの解任が発表された[10][11]。10月23日、11月1日付で「読売新聞スポーツアドバイザー」に就任することが読売新聞グループ本社から発表された。11月26日に2019年から日テレジータス・ニッポン放送の野球解説者になることが発表された[12]。またスポーツ報知野球評論家にも就任する。



選手としての特徴


走塁に関しては、二桁盗塁を記録したことは1度もない。ただしランナーとして塁に出たときには、相手投手のクセを研究して、少しでも早くスタートが切れるように心掛けていた[13]


遊撃手としてゴールデングラブ賞6回受賞している。川相本人は「池山(隆寛)や野村(謙二郎)のほうが上だよ」と語っており、「負けてたまるか」という気持ちでやってきたと述べている[14]


遊撃手以外には二塁手や三塁手、外野手としても出場しており、中日では1試合だけ一塁手も務めた[1]



バント技術


犠打数のギネス記録保持者であり、バントの技術はプロ野球史上最高峰のレベルである。巨人でのレギュラー時代は2番打者として多くの犠打を記録し、レギュラーを外れた晩年は「ピンチバンター」として活躍した。誰もが送りバントと分かっている状況で代打で登場し、成功した。2000年の日本シリーズ第5戦では「5番・DH」のドミンゴ・マルティネスに代わって代打で登場し、無死一二塁の場面でバントを決めた。


通算の犠打成功率は9割を超えている。1995年は47犠打を記録したが、失敗数は0である。


送りバントのコツとしては「割り切りが大事」「ここに転がすと決めたら、どんなボールが来てもそこに転がす」という気持ちの整理が重要だという。技術面では、目とバットの距離を変えないようにする(手先ではなく膝でバットをボールに合わせて、目とバットの距離を一定に保つ)ことが重要なポイントだと話している[15]


ちなみに、川相が記録してきた送りバントのほとんどは、自軍のベンチからのサインによるもので、自分で判断してバントしたケースは通算で10回あるかないかだという。過去に何度か「死んでも成功させる」という気持ちで打席に立ったことがある[16]


職人的イメージから冷静沈着な印象が強いが、実際はかなりの熱血漢。それはチームメイト間での川相の綽名に「台風0号」というものがあったことからも伺え、激しい気性を覗かせる一面もあった。思うようにいかない打席の後にはベンチで悔しさを叩き付けることも珍しくなく、特にバントを失敗した時は自身のこだわりから一段と荒れていた。[要出典]


原が監督を務めていた頃川相は一軍ヘッドコーチを担当していたが、その頃の川相は川口和久に言わせると「こだわりがあって気配りもできて、なおかつ、相当ねちっこい男でもあった」とのこと。当時の川相は試合後のミーティングが長く、その日に起こったことはその日に分析しないと気が済まない性分であった。川口はこれを「とことんまで原因を突き詰め、改善策を立て、それを翌日からに生かそうという気持ちが強いんだ。たぶん選手時代から続けてきたことだと思う。努力の男だったからね。そうじゃなきゃ犠打の世界記録なんて作れない」と2018年9月の雑誌の記事で評している[17]


ダジャレのセンスは非常に悪く、川口和久は「熱帯夜には稲川淳二の怪談か川相のオヤジギャグだね」と揶揄している[17]



詳細情報



年度別打撃成績

































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































O
P
S

1984

巨人
18 11 9 4 1 0 0 0 1 0 0 0 0 0 2 0 0 2 0 .111 .273 .111 .384

1985
35 27 23 1 5 4 0 0 9 3 0 0 2 0 1 0 1 4 0 .217 .240 .391 .631

1986
48 37 31 6 6 1 0 0 7 0 0 0 3 0 1 0 2 3 0 .194 .265 .226 .491

1987
58 49 38 8 8 4 0 0 12 0 0 0 5 0 4 1 2 7 1 .211 .318 .316 .633

1988
53 81 71 7 19 1 2 2 30 6 3 0 6 0 3 0 1 11 1 .268 .307 .423 .729

1989
98 381 319 40 81 9 5 5 115 28 6 4 32 2 23 0 5 46 4 .254 .312 .361 .673

1990
94 406 309 53 89 19 2 9 139 32 9 5 58 4 32 0 3 34 4 .288 .356 .450 .806

1991
126 562 439 53 110 17 2 2 137 36 8 0 66 2 49 0 5 56 6 .251 .331 .312 .643

1992
98 398 330 42 85 13 1 5 115 23 4 5 42 0 20 0 6 38 9 .258 .312 .348 .660

1993
131 553 462 58 134 23 2 5 176 35 2 10 45 2 43 0 1 64 9 .290 .350 .381 .731

1994
130 567 473 69 143 18 4 0 169 33 3 0 35 2 54 0 3 51 13 .302 .376 .357 .733

1995
108 467 371 51 97 13 0 2 116 19 3 3 47 0 47 0 2 47 12 .261 .348 .313 .660

1996
126 549 440 50 102 14 0 2 122 22 5 1 56 2 48 0 3 49 7 .232 .310 .277 .588

1997
124 507 416 68 120 21 2 6 163 25 2 3 45 2 39 0 5 40 6 .288 .355 .392 .747

1998
93 300 266 27 68 14 1 1 87 16 2 1 14 2 17 1 1 36 8 .256 .301 .327 .628

1999
82 186 149 19 44 1 0 0 45 14 0 2 19 0 17 1 1 12 3 .295 .371 .302 .673

2000
54 74 58 8 11 1 0 0 12 4 0 1 6 1 8 0 1 9 0 .190 .294 .207 .501

2001
73 64 52 6 15 3 0 2 24 5 0 0 10 0 2 0 0 11 0 .288 .315 .462 .776

2002
88 132 114 11 25 5 0 1 33 8 0 0 14 0 3 0 1 25 4 .219 .246 .289 .535

2003
72 90 80 5 19 3 1 0 24 3 0 1 9 0 1 0 0 10 3 .238 .247 .300 .547

2004

中日
80 34 23 4 6 0 0 1 9 3 0 0 6 0 4 0 1 4 2 .261 .393 .391 .784

2005
69 24 17 1 5 2 0 0 7 6 0 0 7 0 0 0 0 5 0 .294 .294 .412 .706

2006
51 29 22 0 6 0 0 0 6 1 0 0 6 0 0 0 1 6 0 .273 .304 .273 .577

NPB:23年
1909 5528 4512 591 1199 186 22 43 1558 322 47 36 533 19 418 3 45 570 92 .266 .333 .345 .678

  • 各年度の太字はリーグ最高、赤太字はNPB最高


表彰




  • ゴールデングラブ賞:6回 (1989年 - 1991年、1993年、1994年、1996年)


  • ベストナイン:1回 (1994年)


  • JA全農Go・Go賞:1回 (好捕賞:1993年6月)


  • 東京ドームMVP:2回 (1991年、1993年)


  • セ・リーグ連盟特別表彰:1回 (会長特別賞:2003年)※MLB記録を上回る通算犠打記録達成のため


  • ヤナセ・ジャイアンツMVP賞:1回 (1990年)


  • ベスト・ファーザー イエローリボン賞 in 「プロ野球部門」 (2009年)



記録


世界記録

  • 通算犠打:533

初記録


  • 初出場:1984年4月24日、対横浜大洋ホエールズ1回戦(横浜スタジアム)、8回裏に石渡茂に代わり遊撃手で出場

  • 初先発出場:1984年5月24日、対阪神タイガース11回戦(後楽園球場)、8番・遊撃手として先発出場

  • 初安打:1984年6月2日、対ヤクルトスワローズ7回戦(後楽園球場)、8回裏に鹿取義隆の代打で出場、宮本賢治から単打

  • 初打点:1985年5月6日、対ヤクルトスワローズ6回戦(後楽園球場)、2回裏に大川章から適時二塁打

  • 初犠打:1985年6月13日、対ヤクルトスワローズ12回戦(福井県営球場)、7回裏に阿井英二郎から投手前犠打

  • 初本塁打:1988年7月7日、対中日ドラゴンズ16回戦(札幌市円山球場)、4回裏に近藤真一から左越ソロ


節目の記録


  • 200犠打:1992年7月1日、対阪神タイガース17回戦(東京ドーム)、8回裏に弓長起浩から ※史上11人目

  • 250犠打:1993年8月25日、対阪神タイガース22回戦(東京ドーム)、1回裏に仲田幸司から ※史上4人目

  • 300犠打:1995年5月4日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、1回表に山崎一玄から一塁前犠打 ※史上3人目

  • 1000試合出場:1996年4月7日、対阪神タイガース3回戦(東京ドーム)、2番・遊撃手で先発出場 ※史上329人目

  • 350犠打:1996年5月6日、対広島東洋カープ4回戦(東京ドーム)、1回裏に近藤芳久から ※史上2人目

  • 400犠打:1997年4月9日、対中日ドラゴンズ2回戦(東京ドーム)、1回裏に有働克也から投手前犠打 ※史上2人目

  • 1000本安打:1997年10月8日、対ヤクルトスワローズ27回戦(明治神宮野球場)、1回表に石井一久から左前安打 ※史上187人目

  • 450犠打:1998年7月19日、対ヤクルトスワローズ19回戦(東京ドーム)、8回裏にマーク・エーカーから投手前犠打 ※史上2人目

  • 452犠打:1998年8月15日、対阪神タイガース19回戦(東京ドーム)、7回裏に吉田豊彦から投手前犠打 ※従来のNPB記録(平野謙の451犠打)を更新

  • 1500試合出場:2001年5月23日、対ヤクルトスワローズ8回戦(東京ドーム)、7回裏に柏田貴史の代打で出場 ※史上132人目

  • 500犠打:2002年7月25日、対阪神タイガース18回戦(阪神甲子園球場)、9回表に黒田哲史の代打で出場、マーク・バルデスから投手前犠打 ※史上初

  • 512犠打:2003年8月20日、対横浜ベイスターズ25回戦(東京ドーム)、6回裏に川中基嗣の代打で出場、ドミンゴ・グスマンから投手前犠打 ※MLB記録(エディ・コリンズの511犠打)を更新


その他の記録


  • オールスターゲーム出場:2回 (1990年、1993年)


通算監督成績


6試合 5勝1敗 勝率.833


※ 巨人原辰徳監督が欠場した下記の試合の監督代行



  • 2014年5月5日対中日9回戦(ナゴヤドーム)

  • 2015年4月15・16日の対横浜DeNA4・5回戦(両日共に横浜スタジアム)、17~19日の対阪神4~6回戦(各日共に阪神甲子園球場)



背番号




  • 60 (1983年 - 1988年)


  • 0 (1989年 - 1999年)


  • 6 (2000年 - 2003年)


  • 7 (2004年 - 2006年)


  • 71 (2007年 - 2010年)


  • 78 (2011年 - 2018年)



代表歴



  • 2017アジアウインターベースボールリーグ:NPBイースタン選抜:監督[9]


関連情報



現在の出演番組


  • ニッポン放送ショウアップナイター


過去の出演番組


  • 「バース・デイ」(TBS) - 中日コーチに就任したばかりの川相の奮闘ぶりが紹介された。


著書



  • 『明日への送りバント』(2005年/KKロングセラーズ)ISBN 9784845420674

  • 『勝つための言葉』(2008年/KKロングセラーズ)

  • 『スモールベースボールを紐解く』(2011年/ベースボール・マガジン社)ISBN 9784583103501



関連書籍



  • 『背番号0:闘志∞』吉田武著(1994年/ベースボール・マガジン社)

  • 『バントの神様:川相昌弘と巨人軍の物語』赤坂英一著(2002年/講談社)

  • 『巨人軍5000勝の記憶』(2007年/読売新聞社、ベースボールマガジン社)ISBN 9784583100296 (参考文献:p.87ほか)



脚注


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注釈





  1. ^ かつて長岡久夫がこの背番号をつけたことがあるが公式戦出場は果たせなかった。


  2. ^ 同番号の前任者・谷繁元信は、正捕手のエースナンバーは森昌彦に代表される27、もしくは田淵幸一に代表される22にするという落合監督の方針により27に変更。




出典




  1. ^ ab“Masahiro Kawai Japanese League Statistics & History”. Baseball-Reference.com. 2015年1月23日閲覧。


  2. ^ 『藤田前監督 巨人軍を語る』日本放送出版協会、1993年3月、ISBN 4140800909、55頁 - 58頁


  3. ^ 1994年10月2日付読売新聞17面14版


  4. ^ “【8月20日】2003年(平15) 犠打職人・川相昌弘 73年ぶりに世界記録を更新”. スポーツニッポン (2007年8月20日). 2012年8月3日閲覧。[リンク切れ]


  5. ^ “Most sacrifice bunts in a baseball career” (英語). Guinness World Records. 2014年3月6日閲覧。


  6. ^ “大きく変貌する 巨人2軍 川相昌弘監督 中日コーチ時代の苦い経験生きる” (日本語). スポーツニッポン. (2011年8月30日). http://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/08/30/kiji/K20110830001516110.html 2011年9月23日閲覧。 


  7. ^ 「平成24年 第52回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト


  8. ^ “【プロ野球】巨人の後任監督人事 白石オーナー「できるだけ速やかに」”. 産経ニュース (2015年10月19日). 2017年2月2日閲覧。

  9. ^ ab“2017アジアウインターベースボールリーグ(AWB)NPBメンバー一覧”. NPB.jp (2017年11月10日). 2017年11月10日閲覧。


  10. ^ 二軍コーチングスタッフの人事について読売巨人軍


  11. ^ https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/sports/239854


  12. ^ ショウアップナイター解説陣に川相氏、井端氏が加わる!ベースボールキング 2018年11月26日


  13. ^ 講談社刊、赤坂英一著『バントの神様―川相昌弘と巨人軍の物語』


  14. ^ 講談社刊、赤坂英一著『バントの神様―川相昌弘と巨人軍の物語』


  15. ^ 川相昌弘、世界記録保持者が明かすバントの極意


  16. ^ 講談社刊、赤坂英一著『バントの神様―川相昌弘と巨人軍の物語』

  17. ^ abベースボール・マガジン社『週刊ベースボール』2018年10月1日号 p.92.




関連項目



  • 岡山市出身の人物一覧

  • 読売ジャイアンツの選手一覧

  • 中日ドラゴンズの選手一覧



外部リンク




  • 個人年度別成績 川相昌弘 - NPB.jp 日本野球機構

  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)

  • ほぼ日刊イトイ新聞 川相二軍監督 激動史









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