西本聖
千葉ロッテマリーンズコーチ時代 (2012年) | |
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 愛媛県松山市 |
生年月日 | (1956-06-27) 1956年6月27日(62歳) |
身長 体重 | 176 cm 81 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 投手 |
プロ入り | 1974年 ドラフト外 |
初出場 | 1976年4月15日 |
最終出場 | 1993年10月1日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
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コーチ歴 | |
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西本 聖(にしもと たかし、1956年6月27日 - )は、愛媛県松山市出身の元プロ野球選手(投手)・野球解説者、プロ野球指導者。
江川卓と共にエースとして巨人の一時代を築き、巨人退団後は中日、オリックスでもプレーした。選手生活晩年に巨人へ復帰して引退。エース級としての活躍に加え、左足を高く上げるダイナミックな投球フォームでも人気があった。
引退後は野球解説者を務めていたが、2003年には阪神の一軍投手コーチを務めた。阪神のコーチ辞任後は再び野球解説者を務めていたが、2010年よりロッテのコーチとして現場に復帰し、2013年よりオリックス・バファローズの投手コーチ兼バッテリーコーチ、育成チーフコーチ、2015年はハンファ・イーグルスの一軍投手コーチを務めた。
兄に、広島に所属していた元プロ野球選手の西本明和[注 1]、二所ノ関部屋・片男波部屋に所属していた元大相撲力士の玉松山(最高位三段目)がいる。
目次
1 経歴
1.1 生まれ
1.2 高校時代
1.3 巨人時代
1.4 中日・オリックス時代
1.5 引退試合
1.6 現役引退後
2 西本のシュート
3 詳細情報
3.1 年度別投手成績
3.2 タイトル
3.3 表彰
3.4 記録
3.5 背番号
4 関連情報
4.1 出演番組
4.2 CM出演
4.3 著書
4.4 映画
4.5 歌
4.6 DVD
4.7 評伝
4.8 西本を題材とした作品
5 脚注
5.1 注釈
5.2 出典
6 関連項目
7 外部リンク
経歴
生まれ
愛媛県松山市沖に浮かぶ、興居島に生まれ育つ。あまり裕福とは言えない家庭環境であった。甲子園で名を馳せた実兄の西本明和は本来、早稲田大学で六大学野球に出場するつもりであったが急遽広島東洋カープに入団し、プロ野球選手として家計を支え、まだ小学生だった聖の面倒を見てた。「聖を自分の手元において野球をさせたい」と瀬戸内海を挟んだ広島商へ入学させるつもりでほぼ決まりかけていたが、末っ子の広島商入りを父が猛反対し、地元の松山商に入れた[1]。広島商に入っていれば1年上が達川光男らで、甲子園で江川卓と投げ合っていた可能性もあった[1]。
高校時代
松山商では1972年、1年生の時に夏の甲子園予選北四国大会準決勝に進出。植上健治のいた高松商と対戦し、リリーフとして登板するが0-4で敗退。エースとなった翌1973年夏は、県予選準々決勝で南宇和高の藤田学投手と投げ合い0-2で完封負け。1974年夏の県予選2回戦北条高戦で7回コールドゲームながらノーヒットノーランを達成している。準々決勝で帝京第五高に0-1で惜敗し、甲子園には出場できなかった。同期には後に同校監督として夏の甲子園優勝に導いた沢田勝彦がいる。
巨人時代
1974年にドラフト外で長嶋茂雄が率いる巨人に入団。当初は投手ではなく内野手として考えていたという報道も見られる。
打撃投手としての登板でも全力投球したり、電車に乗る時につま先立ちをして筋力を鍛えたり、後ろの歯を取り除いた一本歯の下駄を履いたりするなど[2]、野球に対する真摯な姿勢と並外れた練習量が実を結び、2年目の1976年には敗戦処理ながら対阪神戦で一軍で初登板を果たす。8点ビハインドの8回裏に登板したこの試合では第1打者のマイク・ラインバックに本塁打を打たれ、その後も安打を打たれ3失点。同年の一軍登板はこの1試合だったが、イースタン・リーグでは最多勝を獲得した。翌年3年目の1977年には8勝を挙げて一軍に定着。
1979年、ライバルとなる江川卓が入団し、共にエースとして巨人の一時代を支えていくこととなる。西本はこの年初めて規定投球回に達し、防御率は平松政次に次ぐリーグ2位の2.76と好成績をあげ、先発に定着。1979年8月1日の広島vs巨人17回戦でふがいない登板を行い勝ち試合をふいにした。その夜、宿舎のホテルで長嶋監督から20発に及ぶ往復ビンタを受けたと自著で語っている。また、著書では角盈男も同席していたという[3][注 2]。
1980年から1985年まで6年連続2桁勝利を記録した。特に1981年の活躍は秀逸であった。
この年はキャンプ中で西本が留守だった自宅がガス爆発を起こし、夫人が重傷を負っていた。この対応に追われた西本の開幕時の仕上がりは不十分であり、開幕投手予想の大勢は江川であったという。しかし、当時の藤田元司監督は西本が逆境に強い性格であることを見抜き、開幕投手に指名した。開幕戦を勝利した西本はウイニングボールを持って病院に向かい、病床の夫人を見舞った[4]。開幕以降、勝利を積み重ね、この年のチームはセ・リーグで優勝した。
同年の日本シリーズでは、日本ハム・ファイターズを相手に1完封を含む2完投勝利を挙げMVPを受賞した。第2戦では、日本シリーズ初の毎回奪三振の記録も作った(日本シリーズでの毎回奪三振は、以降長きに渡って誰も達成できなかったが、2008年の日本シリーズ第4戦に西武の岸孝之が達成した)。第4戦では13安打を喫しながら、要所を締めて完封勝ち、粘りの投球の真骨頂を見せた。当時は両チームとも後楽園球場を本拠地としていたため、史上初めて全試合同じ球場で行われた日本シリーズ(後楽園シリーズ)は、巨人の優勝となった。
同年、西本はシーズンで18勝を挙げてリーグ優勝に貢献したことにより、沢村賞を受賞。この年は江川が勝ち数でも上回るなど投手五冠王を成し遂げた活躍をしたが、西本の沢村賞の理由として、家族の事故がありつつも開幕ダッシュに貢献した西本と、巨人が独走態勢に入ってから成績を残した江川との差が評価されたものであるとか、投球フォームが沢村に似ているから、などと説明された。この選考についてマスコミから嫌われている江川から西本に投票が流れたのではないかという疑問が投げかけられ、翌年よりマスコミによる投票から歴代受賞者による選考へと変更された。
1983年の日本シリーズの西武ライオンズ相手の第2戦、第5戦の完投勝利で敢闘賞を獲得した。日本シリーズでの成績はすばらしく、連続イニング無失点記録がある他、シュートを武器に内野ゴロの山を築いていった西本らしく、内野ゴロ補殺数など多数ある。
1987年4月10日に後楽園球場で行われた中日ドラゴンズとの開幕戦で開幕投手として先発し、この年にロッテオリオンズから移籍してきた中日の4番・落合博満との対戦で、西本は落合に対し全打席全球シュートを投げた。その結果、1本だけはセンター前にヒットを打たれたものの4打数1安打と封じ込め、自身も完封勝利を収めた。「パ・リーグで三冠王だといってもここはセ・リーグ、パ・リーグとは違う」というセ・リーグの投手としてのプライドがあったからだといわれている。また『全球シュート』は研究に研究を重ねてたどり着いたのではなく、当日のマウンドで落合と向かい合ったときにひらめいたという。なお、落合はこの年無冠に終わっている。これには西本は「もし江川投手が開幕投手だったら江川さんは僕みたいに偏ったピッチングはしないので、他チームの投手は江川さんの攻め方を参考にしたはず。僕の攻め方があったからこそ落合さんは無冠に終わったんだろう。」と語っている。また、この時に中日の監督だった星野仙一はこのピッチングを見ていつか西本を獲得しようと決意し、2年後にトレードを実現させた[5]。
同期入団でドラフト1位だった定岡正二をライバルとしていたが、後に江川がライバルとなった[注 3]。藤田監督は、両者を競わせることで、好成績に繋げた。江川とは8年間開幕投手を争った。
その後は投手コーチの皆川睦雄との確執があり、思うような成績を残すことが出来なくなった[7]。球団は2人を和解させようとしてオフに和解ゴルフをさせたがマスコミには「茶番劇」と書かれ、2人のギクシャクした関係はとても和解したとは言い難かった。1988年を最後に、巨人生え抜きの西本は同球団を去ることとなる。同時に皆川もコーチを解任された。
中日・オリックス時代
1987年にライバル江川が引退し、翌年4勝に終わると、1989年に中尾孝義との交換トレードで加茂川重治と共に中日に移籍する。移籍1年目に20勝で最多勝のタイトルを斎藤雅樹と共に獲得。翌年も11勝を上げたが、1991年に椎間板ヘルニアのため低迷。手術を受け、1992年は1勝11敗の成績で戦力外になり自由契約となる。1993年に巨人時代の先輩でもあり西本の理解者だった土井正三が監督をしていたオリックス・ブルーウェーブに移籍し、先発で5勝を挙げるも、契約交渉が決裂して再び自由契約となり、わずか1シーズンで退団する。
引退試合
1994年3月1日に入団テストを経て巨人に復帰したものの、当時投手コーチの堀内恒夫が復帰に猛反発した事が影響し、オープン戦でも1度しかチャンスを与えて貰えずペナントレースでは一軍登板は無く、同年10月13日に引退を表明した。東京スポーツの運動部デスク・溝口拓也によると堀内だけが「西本なんていらねえ」と言っていたという[8]。当初はシーズン中の引退試合も検討されたが、チームが最終戦まで中日と優勝争いを繰り広げた(10.8決戦)ために見送られ、シーズンオフの1995年1月21日に入団以来のライバルで親友でもある定岡正二の企画の下、多摩川グラウンドで引退試合が行われた。
定岡は自分の仲間を集めて「サダーズ」を結成し西本と対戦、西本チームには彼を師匠と慕う、桑田真澄(当時巨人)、山本昌広、中村武志、立浪和義(以上当時中日)、平井正史(当時オリックス)といった彼が所属した球団にいた選手たちが集まった。試合には当時の監督の長嶋茂雄も始球式のために駆けつけたが、最終回に急遽代打として登場。引退試合最後のバッターボックスに立ったが、1975年の入団時と1994年の復帰時のいずれも監督を務めていた長嶋を打ち取り、20年にわたるプロ生活を終えた[9]。
現役引退後
1995年 - 2002年および、2004年 - 2009年に、文化放送の野球解説者や日刊スポーツの野球評論家を歴任。フジテレビのプロ野球中継にも、スポット契約で出演していた。
2002年10月21日阪神の一軍投手コーチに就任し、2003年シーズンはブルペンを担当した。チームはこの年に18年振りのリーグ優勝を果たしたが、一軍監督・星野仙一の勇退を機に、自身も同年10月31日に退団した。
2009年10月27日に、千葉ロッテマリーンズの一軍投手兼バッテリーチーフコーチへ就任。12月7日には、野球殿堂入り候補者名簿・プレーヤー部門に掲載される[10]。2011年には、成本年秀と入れ替わる格好で、二軍投手コーチに異動。2012年に一軍投手コーチへ復帰したが、10月15日付で来季の契約しないと通告された[11]。セス・グライシンガーは西本と二人三脚で軸足にタメをつくるフォームを固め2010年から2年間1勝だったが2012年はチーム最多タイの12勝と復活し、グライシンガーは「自分が再生できたのはニシモトさんのおかげ。あれほどのコーチはいない」と慕われ、同年新人のシーズン最多登板記録をつくった益田直也も「毎日、新しいことを教えてもらった。知識で打者を打ち取れるようになった」と述べていた[12]。
2013年10月30日オリックス・バファローズの一軍投手兼バッテリーコーチに就任。前年最下位だったチーム防御率をリーグ1位に引き上げ、佐藤達也や松葉貴大を育てた[13]。2014年に二軍育成チーフコーチへ異動したが、同年10月1日に球団から退団が発表された[14]。
2015年には、韓国プロ野球・ハンファ・イーグルスの一軍投手コーチに就任。前年の秋季沖縄キャンプからチームに参加したが、1年で退団した[15]。2016年から、日刊スポーツの野球評論家[16]、文化放送の野球解説者として活動を再開。
西本のシュート
当時監督だった長嶋は西本のシュートを初めて見た時、「このシュートは天下一品のシュートだ。これだけで勝てる」と絶賛した。西本のシュートは球速より、変化と切れ味を重視しており、カミソリシュートと呼ばれた平松政次とは対照的である。
好調時のシュートは、アウトコースからインコースぎりぎりに曲がるので、打者の大きな脅威となった。たとえば、栗山英樹は、そのようなシュートを右打席では打てないと考えて、スイッチヒッターに転向している。
他チームの指導者は右打者に対し、「西本が真ん中から中寄りに投げてきたら絶対に振るな(空振りに終わる)」と指導していた。
芯を外す投球に長けたグラウンドボールピッチャーだった。初期の頃はシュートと直球と稀にカーブを投げる投球スタイルだったが、球威の衰えた後年は、シュートとシンカーを駆使して若い頃以上にゴロを打たせるスタイルに変更している。宇佐美徹也の著書によると、1981年はゴロアウト406に対して飛球アウトは198で、GO/AOは2.05を記録している[17]。1980年7月25日の試合では12安打をされながら、2失点の完投勝利を収めている。5併殺を打たせてピンチを乗り切った。飛球2つ、三振2つ以外は全てゴロによるアウトで、巨人の内野手は1試合22補殺の記録を作った。1981年の日本シリーズ第5戦では13安打をされながら、完封勝ちを収めた。飛球1つ、三振4つ、あとの22のアウトは全てゴロによるもの(4併殺を含む)だった。13安打を打たれながらも完封しているのはシーズン公式戦でも1989年8月4日の新浦寿夫のみである。1981年は35併殺、1989年は36併殺を打たせている[18]。
1983年の日本シリーズ第5戦でホームランバッターの田淵幸一は野球人生で初めてバットを短く持って本塁打を打った。試合後に田淵は「あのシュートを攻略するためにプライドを捨てた」と発言している。後に西本は野球評論家となった梨田昌孝のインタビューに、「忘れられない1球」としてこの田淵の本塁打を挙げている。このシリーズで西武は第1戦で江川の攻略に成功し、「このシリーズはもらった」と思った選手が多かったらしい。しかし、第2戦で西本のシュートに封じ込められた西武打線は、即座に西本マークに切り換え、宿舎でミーティングを重ねた。それが功を奏し、降雨で1日順延となった第7戦、中1日で先発(シーズン中、当時の巨人は中4日の先発ローテーションが確立されており、また本シリーズでは第6戦のリリーフ登板があった)・好投を続けていた7回裏、疲労からかシュートの切れが若干鈍った西本をとうとう攻略し、満塁からテリー・ウィットフィールドの走者一掃の二塁打で逆転に成功し、そのまま日本一に輝いた。このシリーズでの西本のシュートの切れが、後に語り継がれる日本シリーズの名勝負を産んだ、とも言える。
詳細情報
年度別投手成績
年 度 | 球 団 | 登 板 | 先 発 | 完 投 | 完 封 | 無 四 球 | 勝 利 | 敗 戦 | セ 丨 ブ | ホ 丨 ル ド | 勝 率 | 打 者 | 投 球 回 | 被 安 打 | 被 本 塁 打 | 与 四 球 | 敬 遠 | 与 死 球 | 奪 三 振 | 暴 投 | ボ 丨 ク | 失 点 | 自 責 点 | 防 御 率 | W H I P |
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1976 | 巨人 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | ---- | 6 | 1.0 | 3 | 1 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 3 | 3 | 27.00 | 4.00 |
1977 | 47 | 7 | 2 | 1 | 0 | 8 | 5 | 4 | -- | .615 | 486 | 118.0 | 115 | 10 | 31 | 5 | 5 | 54 | 1 | 0 | 44 | 35 | 2.67 | 1.24 | |
1978 | 56 | 12 | 2 | 0 | 0 | 4 | 3 | 2 | -- | .571 | 553 | 129.1 | 136 | 9 | 42 | 10 | 2 | 64 | 8 | 0 | 58 | 54 | 3.76 | 1.38 | |
1979 | 44 | 17 | 5 | 1 | 2 | 8 | 4 | 6 | -- | .667 | 631 | 153.0 | 143 | 13 | 38 | 5 | 6 | 85 | 4 | 0 | 54 | 47 | 2.76 | 1.18 | |
1980 | 36 | 30 | 15 | 2 | 2 | 14 | 14 | 2 | -- | .500 | 906 | 222.0 | 223 | 20 | 40 | 6 | 2 | 118 | 0 | 1 | 74 | 64 | 2.59 | 1.18 | |
1981 | 34 | 34 | 14 | 3 | 3 | 18 | 12 | 0 | -- | .600 | 1020 | 257.2 | 232 | 23 | 55 | 7 | 3 | 126 | 0 | 0 | 84 | 74 | 2.58 | 1.11 | |
1982 | 37 | 33 | 14 | 0 | 0 | 15 | 10 | 1 | -- | .600 | 1093 | 262.0 | 252 | 22 | 64 | 7 | 6 | 124 | 0 | 1 | 93 | 75 | 2.58 | 1.21 | |
1983 | 32 | 32 | 13 | 2 | 5 | 15 | 10 | 0 | -- | .600 | 1013 | 239.1 | 265 | 29 | 45 | 7 | 4 | 122 | 0 | 0 | 116 | 102 | 3.84 | 1.30 | |
1984 | 31 | 28 | 17 | 2 | 3 | 15 | 11 | 0 | -- | .577 | 923 | 224.2 | 218 | 24 | 55 | 10 | 2 | 91 | 0 | 0 | 91 | 78 | 3.12 | 1.22 | |
1985 | 33 | 26 | 8 | 2 | 1 | 10 | 8 | 2 | -- | .556 | 717 | 169.2 | 184 | 26 | 44 | 6 | 1 | 66 | 0 | 1 | 91 | 76 | 4.03 | 1.34 | |
1986 | 22 | 20 | 3 | 1 | 2 | 7 | 8 | 0 | -- | .467 | 445 | 104.0 | 114 | 9 | 24 | 5 | 2 | 33 | 1 | 0 | 50 | 45 | 3.89 | 1.33 | |
1987 | 26 | 20 | 3 | 2 | 0 | 8 | 8 | 0 | -- | .500 | 544 | 130.0 | 131 | 19 | 22 | 2 | 7 | 67 | 1 | 0 | 64 | 53 | 3.67 | 1.18 | |
1988 | 15 | 9 | 1 | 0 | 0 | 4 | 3 | 0 | -- | .571 | 261 | 64.2 | 60 | 3 | 12 | 0 | 2 | 35 | 0 | 0 | 30 | 28 | 3.90 | 1.11 | |
1989 | 中日 | 30 | 30 | 15 | 5 | 2 | 20 | 6 | 0 | -- | .769 | 979 | 246.2 | 231 | 22 | 39 | 11 | 12 | 96 | 1 | 0 | 73 | 67 | 2.44 | 1.09 |
1990 | 25 | 25 | 6 | 2 | 2 | 11 | 9 | 0 | -- | .550 | 726 | 174.1 | 193 | 12 | 22 | 3 | 6 | 71 | 2 | 0 | 80 | 63 | 3.25 | 1.23 | |
1991 | 6 | 6 | 1 | 0 | 0 | 2 | 1 | 0 | -- | .667 | 157 | 39.2 | 37 | 2 | 8 | 0 | 0 | 23 | 1 | 0 | 16 | 14 | 3.18 | 1.13 | |
1992 | 16 | 14 | 2 | 0 | 0 | 1 | 11 | 0 | -- | .083 | 336 | 75.2 | 104 | 15 | 13 | 2 | 2 | 25 | 0 | 1 | 45 | 41 | 4.88 | 1.55 | |
1993 | オリックス | 13 | 12 | 1 | 0 | 0 | 5 | 5 | 0 | -- | .500 | 284 | 65.1 | 83 | 2 | 14 | 1 | 2 | 39 | 0 | 1 | 39 | 32 | 4.41 | 1.48 |
通算:18年 | 504 | 355 | 122 | 23 | 22 | 165 | 128 | 17 | -- | .563 | 11080 | 2677.0 | 2724 | 261 | 569 | 87 | 64 | 1239 | 19 | 5 | 1105 | 951 | 3.20 | 1.23 |
- 各年度の太字はリーグ最高
タイトル
最多勝:1回 (1989年)
表彰
沢村賞:1回 (1981年)
ゴールデングラブ賞:8回 (投手部門:1979年 - 1985年、1989年)
月間MVP:2回 (投手部門:1989年7月、1989年9月)- 最優秀JCB・MEP賞:1回 (1989年)
カムバック賞 (1989年)
日本シリーズMVP:1回 (1981年)- 日本シリーズ敢闘賞:1回 (1983年)
記録
- 初記録
- 投手記録
- 初登板:1976年4月15日、対阪神タイガース2回戦(阪神甲子園球場)、8回裏に6番手で救援登板・完了、1回3失点
- 初先発登板:1977年4月17日、対ヤクルトスワローズ3回戦(後楽園球場)、4回1/3を3失点(自責点2)
- 初奪三振:同上、2回表に水谷新太郎から
- 初勝利:1977年6月13日、対大洋ホエールズ14回戦(川崎球場)、6回裏1死に2番手で救援登板、2回2/3無失点
- 初セーブ:1977年6月28日、対阪神タイガース15回戦(後楽園球場)、8回表1死に3番手で救援登板・完了、1回2/3無失点
- 初先発勝利・初完投勝利:1977年9月27日、対広島東洋カープ24回戦(後楽園球場)、9回3失点
- 初完封勝利:1977年10月9日、対大洋ホエールズ26回戦(後楽園球場)
- 打撃記録
- 初打席・初安打:1977年4月17日、対ヤクルトスワローズ3回戦(後楽園球場)、3回裏に会田照夫から二塁打
- 初本塁打:1977年8月29日、対ヤクルトスワローズ21回戦(明治神宮野球場)、8回表に安田猛から2ラン
- 節目の記録
- 1000投球回:1982年6月22日、対ヤクルトスワローズ12回戦(後楽園球場)、1回表1死に記録
- 1500投球回:1984年7月4日、対ヤクルトスワローズ13回戦(明治神宮野球場)、4回裏1死に記録
- 100勝:1985年 6月27日、対ヤクルトスワローズ14回戦(後楽園球場)、9回1失点完投勝利 ※史上90人目
- 2000投球回:1987年9月24日、対中日ドラゴンズ23回戦(後楽園球場)、3回表2死に記録
- 1000奪三振:1989年4月26日、対阪神タイガース3回戦(ナゴヤ球場)、9回表に渡真利克則から ※史上78人目
- 150勝:1990年6月6日、対阪神タイガース10回戦(ナゴヤ球場)、先発登板で7回2/3を3失点 ※史上38人目
- 2500投球回:1991年4月7日、対読売ジャイアンツ2回戦(東京ドーム)、4回裏2死に記録 ※史上37人目
- 500試合登板:1993年8月27日、対近鉄バファローズ16回戦(グリーンスタジアム神戸)、先発登板で4回2/3を5失点で敗戦投手 ※史上67人目
- その他の記録
最高勝率:1回 (1989年) ※当時連盟表彰なし[注 4]
- 初登板で対戦した第1打者に被本塁打:上記「初記録」の「初登板」の項を参照 ※セ・リーグ7人目
- 1イニング3与死球:1979年8月1日、対広島東洋カープ戦 ※史上3人目、セ・リーグ初[19]
オールスターゲーム出場:8回 (ファン投票選出:1981年、1983年、1984年/監督推薦選出:1980年、1982年、1986年、1989年、1990年)
背番号
58 (1975年 - 1976年)
26 (1977年 - 1988年)
25 (1989年)
24 (1990年 - 1992年)
52 (1993年)
90 (1994年)
71 (2003年、2010年、2012年)
81 (2011年)
72 (2013年 - 2014年)
87 (2015年)
関連情報
出演番組
- 文化放送ホームランナイター
文化放送ライオンズナイター
- ハンファのコーチ退任以降の文化放送においては、もっぱら「ホームランナイター」を含めた週末のセ・リーグの試合(系列局裏送り含む)の担当が主となっており、平日の「ライオンズナイター」への出演は僅少。
- STVアタックナイター
野球好きニュース (J SPORTS)
ザ・ベストテン (TBS、1984年12月27日放送/「ワインレッドの心」が年間ベストテン5位にランクインした安全地帯の玉置浩二が西本のファンだということでお祝いに駈けつけた。西本本人は安全地帯の曲は車の中で聴いているとのこと)
進め!電波少年 (日本テレビ、1994年11月20日放送/「西本投手にナレーターになってほしい!」というコーナー後、この日の番組後半のみナレーターを担当)- ライバル伝説…光と影 (TBS、2009年7月20日放送/この番組での江川卓との対談を含む番組が2012年に映画化)
サンデーモーニング (TBS、2014年10月19日放送)
CM出演
1981年には小林脳行の看板商品の粉末クレンザー「キッチンタニック」「バスタニック」のCMに単独出演。はごろも缶詰のオレンジジュース「こつぶ」のCMにはマリアンと共演している。その他、当時恒例となっていた読売巨人軍選手たちとオロナミンCドリンクのCM共演もあり。
著書
- わが青春の背番号26―熱球悲願 (恒文社、1982年)
- さらば巨人軍 (アイペック、1989年)
- 長嶋監督20発の往復ビンタ (ザマサダ、1995年/小学館、2001年)
映画
- 劇場版 ライバル伝説…光と影 (TBS、2012年)
歌
- 愛あるかぎり 〈VAP 10289-07〉 (1988年)
- SIDE1…愛あるかぎり (作詞:丘灯至夫、作曲:徳久広司、編曲:薗広昭)
- SIDE2…うれいごころ (作詞:川路恵子、作曲:徳久広司、編曲:薗広昭)
- 男 〈コロムビア TD-1278〉 (1989年)
- SIDE1…男 (作詞:丘灯至夫、作曲:小林亜星、編曲:高田弘)
- SIDE2…忘れはしない (作詞:川路恵子、作曲:小林亜星、編曲:高田弘)
DVD
- Sports graphic Number video Giants 1981年 熱闘日本シリーズ 巨人-日本ハム (東北新社、2001年)
評伝
武宮敏明著 『鉄の意志をもつ男・西本聖―ドラフト外のエース』 (恒文社、熱球賛歌シリーズ文庫、1984年)- 東修著 『敵(ライバル)を作って自分を活かす』 (ソニーマガジンズ、1995年)
西本を題材とした作品
江川と西本 (作:森高夕次、画:星野泰視/小学館、ビッグコミックスペリオール、2014年10月24日号〜 )
脚注
注釈
^ 1966年のドラフト1位であった。西本の野球に対するストイックな姿勢に関連して、広島時代の同期である三村敏之は明和について「長年たくさんの野球選手を見て来たが、これほど熱心に練習に取り組んだ選手はいなかった」と評している。[要出典]
^ この試合で衣笠祥雄に死球を与え、左の肩甲骨を骨折させた。
^ 江川とは犬猿の仲と言われたこともあったが、実際にはこの2人は仲が良く、オフには「伊東会」のメンバーとして共にゴルフに行ったり、引退後は2人並んでテレビ出演したりしている。[6]
^ 当時は最高勝率の連盟表彰はなかったが、日本野球機構オフィシャルサイト[1]には、1989年の「最高勝率」として西本の名前が記載されている。なお、タイトルとしての「最優秀勝率投手」および「勝率第一位投手」については、「最高勝率 (野球)」を参照のこと。
出典
- ^ ab福田豊 (2018年11月13日). “父の猛反対で広島商入りが幻に/西本聖1”. 日刊スポーツ (日刊スポーツ新聞社). オリジナルの2018年11月13日時点によるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20181113144803/https://www.nikkansports.com/baseball/column/kunikarakoko/news/201811060000467.html 2018年11月13日閲覧。
^ 『野球が突然、うまくなる』2000年、編者・成美堂出版、15頁。
^ 長嶋監督20発の往復ビンタ
^ 『巨人軍5000勝の記憶』 読売新聞社、ベースボールマガジン社、2007年。ISBN 9784583100296。p.62〜 1981年のシーズン、江川とのライバル関係等他
^ 『日本プロ野球トレード大鑑』ベースボール・マガジン社、2001年、116頁
^ “富士通「夢をかたちに」スペシャル 『20世紀スポーツ名勝負 ライバル伝説…光と影 封印された涙の理由…』”. TBS. 2017年1月15日閲覧。
^ [2]
^ 『東京スポーツ』2014年4月7日 「ハダカの長嶋巨人(6)」
^ 【1月21日】1995年(平7) 雑草エース西本聖、万感の多摩川引退試合に「代打長嶋」 - スポニチ 2009年1月1日
^ 「平成23年 第51回競技者表彰委員会 野球殿堂入り候補者名簿」発表 - 日本野球機構オフィシャルサイト
^ コーチ契約に関するお知らせ - 千葉ロッテマリーンズ・オフィシャルサイト 2012年10月15日
^ 西本聖の「My Way」 反骨の闘う投手から名伯楽へ共同通信2012年11月14日配信
^ オリ小林雅&西本両コーチが配置転換へ日刊スポーツ2013年10月23日配信
^ オリックス 西本コーチら4コーチと契約結ばず 4選手に戦力外通告スポーツニッポン2014年10月1日配信
^ 西本、立石コーチらハンファを退団デイリースポーツ2015年10月8日配信
^ 日刊スポーツ創刊70周年記念講演会~西本聖氏「私の野球人生」日刊スポーツ2016年1月22日配信
^ 宇佐美徹也『プロ野球記録・奇録・きろく』 P.44
^ 宇佐美徹也『プロ野球データブック』 P.627
^ 『週刊ベースボール』2014年7月21日号 97ページ
関連項目
- 読売ジャイアンツの選手一覧
- 中日ドラゴンズの選手一覧
- オリックス・バファローズの選手一覧
- 兄弟スポーツ選手一覧
外部リンク
個人年度別成績 西本聖 - NPB.jp 日本野球機構- 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)
- 西本聖オフィシャルサイト
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