村田真一




















































村田 真一
基本情報
国籍
日本の旗 日本
出身地
兵庫県神戸市
生年月日
(1963-12-05) 1963年12月5日(55歳)
身長
体重

182 cm
82 kg
選手情報
投球・打席
右投右打
ポジション
捕手
プロ入り
1981年 ドラフト5位
初出場
1984年5月12日
最終出場
2001年10月1日
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

選手歴




  • 滝川高等学校


  • 読売ジャイアンツ (1982 - 2001)




コーチ歴



  • 読売ジャイアンツ (2002 - 2003, 2006 - 2018)



村田 真一(むらた しんいち、1963年12月5日 - )は、兵庫県神戸市出身の元プロ野球選手(捕手、右投右打)・コーチ。野球解説者、野球評論家。


愛称は「チュウ」(練習で泥だらけになった姿から「ドブネズミ」と呼ばれ、そこからネズミの鳴き声である「チュウ」となった)「牛カルビ」(ズムサタのコーナーで度々牛カルビが好きと連呼していたことからファンから牛カルビと呼ばれるようになった)[1]




目次






  • 1 経歴


    • 1.1 プロ入り前


    • 1.2 現役時代


    • 1.3 引退後




  • 2 詳細情報


    • 2.1 年度別打撃成績


    • 2.2 年度別守備成績


    • 2.3 表彰


    • 2.4 記録


    • 2.5 背番号




  • 3 脚注


  • 4 参考文献


  • 5 関連項目


  • 6 外部リンク





経歴



プロ入り前


小学5年から野球を始める[2]。本人は嫌がったが6年から中学、高校でも捕手を任され、滝川高校では強打の捕手として知られる[2]。高校時代、遠征試合で後にチームメイトとなる川相昌弘と顔を合わせている。


1981年度ドラフト会議にて読売ジャイアンツから5位指名を受けて入団。同期入団選手には槙原寛己、山本幸二、吉村禎章がおり、「この3人には負けたくない」と思っていたという[2]



現役時代


1年目の1982年、一軍の捕手が病気になったため村田が代わりに昇格するが、当時は山倉和博が全盛期だったことと、基本的に二軍の正捕手を上げると試合が成り立たないという理由から出番に恵まれなかった[2]。3年目の1984年に一軍で初出場するが、右肩を痛めたこともあり、一軍と二軍を往復した。この間、有田修三や中尾孝義といった他球団から実績のあるベテラン捕手が入団したこともあり、出番は少なかった。一時は一塁手に転向するという話も出たが、捕手に拘りたいとの理由で断った。4年目の1985年、肩の痛みが限界に達し各地の医者を訪ねるが原因が判らず野球を辞めようと思っていた頃、二軍監督だった須藤豊の勧めでアメリカに渡り手術を受ける。


1990年に正捕手の座を掴みチームの連覇に貢献し、ベストナインを獲得する活躍を見せた。特にこの頃は左投手と「甲子園の阪神戦」に強く、1990~1992年の3年間、33本塁打のうち24本塁打を左投手から放ち、阪神甲子園球場での阪神戦では72打数27安打、打率.375 6本塁打と打ちまくった(なお、東京ドームでの阪神戦は62打数16安打、打率.258 3本塁打)。1992年はシーズン途中に中尾との交換トレードで西武ライオンズから移籍してきた大久保博元に正捕手の座を奪われ、34試合出場に留まった。1993年は正捕手の座に返り咲くことに成功。1994年5月18日の対広島戦では槙原とのバッテリーで完全試合を達成。6回あたりから誰も槙原に声をかけなくなったが、仲の良かった村田は無理だと思いつつ「狙ってみろよ」と言っていたという[2]


1991年8月13日の対大洋戦で1試合8盗塁を許すなど肩は弱かった。また、例えリード通りの球が来なくて打たれても、投手の責任にせず「私の責任です」と常に言う捕手であった。宮本和知の著書である『プロ野球超プレイ笑プレイ』ではその人柄を絶賛され、「当時のエース達もここぞという試合では、信頼できる村田さんを女房役に指名することが多かった」と語られている。


一方で、死球を受けて負傷する事も非常に多かった。1994年5月11日のヤクルト戦で西村龍次から頭部へ死球を受け、激昂し西村へ詰め寄ろうとしたが数歩歩いた所で倒れ込み、担架で退場、そのまま病院へ送られる。この後西村への報復死球、ダン・グラッデンへのビーンボールなどでたて続けに大乱闘が起こり、この事が危険球退場ルールが作られるきっかけとなったと言われている[3]


1999年4月9日には、斎藤隆(当時・横浜)から顔面に死球を受け、横浜の捕手のポジションについていた谷繁元信によると、倒れた村田は「シゲ、信じているからな」と言ったという。顔面骨折で入院した村田は早く治すために、リスクは少ないが全快には時間がかかる全身麻酔をかけて形成手術まで施すことではなく、激痛が伴う局部麻酔で骨折治療のみの手術を行うことを選択した。この時は「おれ、顔は売り物じゃないから」と語ったが、さすがに顔の骨をドリルで削る音や局部麻酔の効き目を超えた激痛には耐えられず、のちに「(今度やるなら)全身麻酔にしてもらう」と語っている。なお、この後遺症で村田は顔面付近の筋肉の一部を自分の意志で動かすことができなくなったという[4]


2000年にはリーグ優勝への貢献のみならず、日本シリーズでも優秀選手賞を受賞する活躍を見せて攻守でチームの日本一に大きく貢献したが、2001年には即戦力ルーキーとして阿部慎之助が入団。実質的に阿部の「教育係」となり、出番は激減。同年、斎藤雅樹・槙原とともに現役を引退。


スター選手の多い巨人では地味な存在で、通算11年間正捕手を務めながら、前述の有田・中尾・大久保の移籍組のほか、吉原孝介、村田善則、杉山直輝といった生え抜きのライバルが多く、規定打席に到達したことは1回もなかった。しかし投手陣からの絶大な信頼、安定したリード、打率こそ低いもののパンチの効いた打撃を武器に2000年までマスクを被り、第2次長嶋政権の中心となった。この間チームは1994年、1996年、2000年の3回リーグ優勝し、1994年、2000年は日本一になった。2000年の日本シリーズでは優秀選手にも選出されている。日本プロ野球史上、規定打席に到達せずに年俸1億円プレイヤーとなった野手の第1号である。捕手としての出場試合数「1087」は森祇晶、阿部慎之助、山倉和博に続く歴代4位の球団記録である[2]



引退後


2002年から2003年までは一軍バッテリーコーチを務めた後、2004年からはテレビ朝日・スポーツ報知の解説者を務めた。テレビ朝日では主にバックネット裏からの解説を担当し、関西の系列局朝日放送(ABCテレビ)における全国ネットの阪神タイガース対巨人戦中継でも、基本的に自社の解説者しか使わない方針であるが、巨人OBで関西人ということが買われて解説に起用されることがあった。


2006年から2007年までは再び一軍バッテリーコーチを務めた。2008年からは、もともと打撃優先型捕手だった経験を買われ、一軍打撃コーチを務め、2011年は再度一軍バッテリーコーチへ就任した。バッテリーコーチとしては、投手をリードするにあたって必要以上に裏をかくようなことはせず、投手の特性を把握・依存し、長所を最大限に生かすリードを教えていた。2012年からは再び一軍打撃コーチを務める。2014年5月20日の埼玉西武ライオンズ戦からバッテリーコーチの役割を兼任する。原辰徳監督は「コーチそのものは全く変わっていない。チームが勝つためという中で、配置を変えたところがあるということ」と説明した。2015年は一軍総合コーチ、2016年シーズンより監督が高橋由伸に替わり、同年から2017年までは一軍ヘッドコーチ。2018年は一軍ヘッド兼バッテリーコーチ。2018年10月22日、高橋監督の辞任の後を追う形でコーチ退任が発表された。
2019年からは日本テレビ・ラジオ日本の野球解説者として活動する傍ら、14年ぶりにスポーツ報知の野球評論家に再び就任。


コーチとしての能力を疑問視する声は少なくなく[5][6]、巨人OBの黒江透修は村田のコーチとしての能力を酷評したことがある[7]ほか、角盈男も疑問視する発言をしている[8]



詳細情報



年度別打撃成績
















































































































































































































































































































































































































































































































O
P
S

1984

巨人
17 41 40 7 9 3 1 2 20 5 0 0 0 1 0 0 0 8 0 .225 .220 .500 .720

1988
25 34 33 0 5 1 0 0 6 0 0 0 1 0 0 0 0 12 2 .152 .152 .182 .333

1989
12 31 29 1 4 0 0 1 7 5 0 0 1 0 1 0 0 10 1 .138 .167 .241 .408

1990
84 243 209 23 57 15 1 13 113 44 0 1 0 4 29 5 1 63 5 .273 .358 .541 .899

1991
111 369 320 43 79 18 0 17 148 42 1 0 3 3 40 8 3 88 14 .247 .333 .463 .796

1992
34 92 86 9 20 6 0 3 35 9 0 1 0 0 5 0 1 28 0 .233 .283 .407 .690

1993
88 283 258 23 61 13 0 6 92 28 0 3 2 0 21 6 2 61 10 .236 .299 .357 .656

1994
120 380 330 29 82 12 0 10 124 41 1 1 5 3 36 2 6 88 5 .248 .331 .376 .706

1995
116 387 339 29 90 16 0 13 145 38 0 0 6 1 38 7 3 77 12 .265 .344 .428 .772

1996
99 305 265 15 55 14 2 5 88 26 0 0 9 2 26 5 3 62 8 .208 .284 .332 .616

1997
75 148 128 9 21 5 0 1 29 6 0 0 1 0 17 4 2 32 4 .164 .272 .227 .499

1998
107 339 298 26 80 9 1 7 112 47 0 0 5 5 29 8 2 60 11 .268 .332 .376 .708

1999
91 277 237 23 49 5 0 9 81 28 0 0 7 5 24 1 4 53 6 .207 .285 .342 .627

2000
101 252 225 17 46 7 0 7 74 34 0 0 9 1 15 2 2 65 5 .204 .259 .329 .588

2001
54 96 84 6 15 2 0 4 29 14 0 0 2 1 9 2 0 30 1 .179 .255 .345 .601

NPB:15年
1134 3277 2881 260 673 126 5 98 1103 367 2 6 51 26 290 50 29 737 84 .234 .308 .383 .690


年度別守備成績



















































































































































捕手












1984
巨人
17 16 14 2 .125
1988
20 3 3 0 .000
1989
11 12 8 4 .333
1990
82 36 25 11 .306
1991
110 68 57 11 .162
1992
27 23 17 6 .261
1993
82 52 36 16 .308
1994
119 52 34 18 .346
1995
115 91 65 26 .286
1996
95 54 38 16 .296
1997
73 36 27 9 .250
1998
106 63 43 20 .317
1999
91 55 44 11 .200
2000
98 51 38 13 .255
2001
41 32 23 9 .281
通算
1087 644 472 172 .267


表彰




  • ベストナイン:1回(1990年)


  • 最優秀バッテリー賞:2回(1994年、投手:桑田真澄、1996年、投手:斎藤雅樹)


  • 日本シリーズ優秀選手賞:1回 (2000年)



記録


初記録


  • 初出場:1984年5月12日、対阪神タイガース8回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に山倉和博に代わり捕手として出場

  • 初先発出場:1984年8月7日、対広島東洋カープ15回戦(後楽園球場)、8番・捕手として先発出場

  • 初安打:同上、2回裏に高木宣宏から二塁打

  • 初打点:1984年8月19日、対横浜大洋ホエールズ20回戦(横浜スタジアム)、9回表に竹下浩二から犠飛

  • 初本塁打:1984年9月26日、対広島東洋カープ24回戦(後楽園球場)、5回裏に山根和夫から同点ソロ


節目の記録

  • 1000試合出場:2000年5月10日、対横浜ベイスターズ6回戦(横浜スタジアム)、8番・捕手として先発出場 ※史上359人目

その他の記録


  • オールスターゲーム出場:2回 (1994年、1995年)


背番号




  • 56 (1982年 - 1990年)


  • 9 (1991年 - 2001年)


  • 89 (2002年 - 2003年、2006年 - 2018年)



脚注





  1. ^ 赤坂英一 (2009), キャッチャーという人生, 講談社 p.13

  2. ^ abcdef『巨人の魂 ジャイアンツOBからの提言』


  3. ^ 赤坂英一 (2009), キャッチャーという人生, 講談社 p.177 - 180


  4. ^ 赤坂英一 (2009), キャッチャーという人生, 講談社 p.6,14,195 - 200,254


  5. ^ https://taishu.jp/articles/-/56594?page=2


  6. ^ https://www.asagei.com/excerpt/82605


  7. ^ https://taishu.jp/articles/-/56040?page=1


  8. ^ https://www.asagei.com/excerpt/82996




参考文献


  • 『巨人の魂 ジャイアンツOBからの提言』長谷川晶一、東京ニュース通信社、2006年


関連項目



  • 兵庫県出身の人物一覧

  • 読売ジャイアンツの選手一覧


  • スーパーベースボール (テレビ朝日系列) - 解説者として出演していたプロ野球中継番組。


  • アストロ球団 (テレビドラマ) - スペシャルアドバイザーを務めた。



外部リンク




  • 個人年度別成績 村田真一 - NPB.jp 日本野球機構

  • 選手の各国通算成績 Baseball-Reference (Japan)









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