墺土戦争 (1716年-1718年)
墺土戦争 | |
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戦争:墺土戦争 | |
年月日:1716年 - 1718年 | |
場所:セルビア | |
結果:オーストリアの勝利、パッサロヴィッツ条約の締結 | |
交戦勢力 | |
オーストリア大公国 | オスマン帝国 |
指導者・指揮官 | |
プリンツ・オイゲン | シラーダーリ・ダマト・アリ・パシャ ハジ・ハリル・パシャ |
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墺土戦争(おうとせんそう、英語: Austro-Turkish War, 1716年 - 1718年)は、18世紀にオーストリア(ハプスブルク君主国)とオスマン帝国が東ヨーロッパ・バルカン半島のセルビアを主戦場として衝突した戦争である。
経過
1683年の第二次ウィーン包囲及び翌1684年から1699年までの大トルコ戦争を経てカルロヴィッツ条約が結ばれて以降、両国との間は平和であった。しかし、オスマン帝国はスルタン・アフメト3世の治世で対外戦争に乗り出し、1710年にピョートル1世のロシア・ツァーリ国相手に大北方戦争のプルート川の戦いで勝利、1711年のプルト条約でアゾフを取り戻し、1714年にヴェネツィア共和国とペロポネソス半島を巡り争うと(オスマン・ヴェネツィア戦争)、オーストリアはオスマン帝国の脅威を取り除くためヴェネツィア側に立ち、1716年に宣戦布告した。
戦争に向けた準備は1715年からオーストリア軍総司令官のプリンツ・オイゲンが中心として進め、オーストリアは神聖ローマ帝国諸侯とローマ教皇クレメンス11世からの資金援助と援軍派遣を受けていた他、1716年にイギリスと同盟を結び背後のスペインを牽制、バルカン半島出兵への準備を整えていった。一方のオスマン帝国もイェニチェリとスィパーヒーや周辺国の軍勢を動員してオーストリアを迎え撃つ体勢を打ち立て、ベオグラードを中心に守備を固めていった[1]。
1716年7月、オイゲンを司令官としたオーストリア軍は首都ウィーンを出発、ドナウ川に沿ってバルカン半島の南へ進軍していった。一方オスマン帝国側は、大宰相でアフメト3世の娘婿であるシラーダーリ・ダマト・アリ・パシャが15万の軍勢でベオグラードから北上して、ベオグラードへの前線基地となるペーターヴァルダインを包囲したが、オイゲンは8月にペーターヴァルダインに到着すると、守備部隊の援護と合わせてオスマン帝国軍を撃破した(ペーターヴァルダインの戦い)。
ベオグラード包囲に必要な船が不足していたため、オーストリアは軍を北へ向けてティサ川を北上、トランシルヴァニアへ進軍してティミショアラを落とし(テメシュヴァール包囲戦)、11月にウィーンへ引き上げた。アリ・パシャはペーターヴァルダインの戦いで戦死したため、ハジ・ハリル・パシャが後任の大宰相に就任してオスマン帝国軍の再編成に追われた。
翌1717年5月、オイゲン率いるオーストリア軍は再びバルカン半島を南下、6月からベオグラード包囲戦を開始した。ベオグラードはドナウ川と支流のサヴァ川に囲まれた包囲困難な都市であり、オーストリア軍はガレー船を中心とした艦隊を包囲網に加え、船橋として活用してペーターヴァルダインとの補給路を確保、同時にベオグラードへ砲撃した。ハリル・パシャはベオグラードの救援に向かい8月に包囲軍へ砲撃、包囲軍は疫病が流行して崩壊の危機が迫ったが、オイゲンは起死回生を賭けて8月16日の朝に救援軍を奇襲、短時間で救援軍を敗走させベオグラードも降伏させた[2]。
ベオグラード陥落後の11月にオーストリア軍は帰国、オイゲンはヨーロッパ各国で英雄と称えられた。スペインが不穏な動きを見せたためオーストリアはオスマン帝国との和睦交渉を始め、1718年にパッサロヴィッツ条約を締結した。オーストリアはベオグラードとティミショアラを含むセルビアとバナトの大部分を獲得、オスマン帝国はバルカン半島において後退したが、ヴェネツィアからペロポネソス半島のモレアを獲得、ヴェネツィアは事実上ペロポネソス半島を失った。戦後、スペインがかつて領有していたオーストリア領イタリアの奪還を図り四国同盟戦争を勃発させると、オーストリアはイギリスと共にスペインと戦うことになる。また、荒廃した占領地の復興にドイツ人入植を奨励、トランシルヴァニアは経済的に発展していった[3]。
脚注
^ パーマー、P52 - P53、久保田、P225 - P226、マッケイ、P207 - P211。
^ 久保田、P226 - P229、マッケイ、P211 - P217。
^ パーマー、P53 - P54、マッケイ、P217 - P221。
参考文献
アラン・パーマー著、白須英子訳『オスマン帝国衰亡史』中央公論新社、1998年。
久保田正志『ハプスブルク家かく戦えり-ヨーロッパ軍事史の一断面-』錦正社、2001年。
デレック・マッケイ著、瀬原義生訳『プリンツ・オイゲン・フォン・サヴォア-興隆期ハプスブルク帝国を支えた男-』文理閣、2010年。