三島通庸






















































日本の旗 日本の政治家
三島 通庸
みしま みちつね


Mishima Michitsune.jpg

生年月日
1835年6月26日(天保6年6月1日)
出生地
薩摩国
没年月日
1888年(明治21年)10月23日
死没地
東京府
称号
正三位勲二等子爵




山形県の旗 初代 山形県令

在任期間
1879年 - 1882年




福島県の旗 第5代 福島県令

在任期間
1882年 - 1884年




栃木県の旗 第3代 栃木県令

在任期間
1883年 - 1885年




日本の旗 第5代 警視総監

在任期間
1885年 - 1888年
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三島 通庸(みしま みちつね、1835年6月26日(天保6年6月1日) - 1888年(明治21年)10月23日)は、日本の武士(薩摩藩士)、明治時代の内務官僚。栄典は正三位勲二等子爵。通称は弥兵衛。


県令時代は、反対派を押し切り強力に土木工事を進める手法から「土木県令」や「鬼県令」の異名で呼ばれた。




目次






  • 1 概要


  • 2 経歴


    • 2.1 鶴岡県令


    • 2.2 山形県令


    • 2.3 福島県令


    • 2.4 保安条例


    • 2.5 那須野ヶ原の開墾


    • 2.6 塩原御用邸の献上


    • 2.7 警視庁武術の振興




  • 3 その他


  • 4 栄典


  • 5 親族


  • 6 脚注


    • 6.1 注釈


    • 6.2 出典




  • 7 参考文献


  • 8 関連項目


  • 9 外部リンク





概要


薩摩藩士・三島通純の長男として生まれる。三島家は藩の鼓指南役の家柄であったが、示現流剣術とともに伊地知正治から兵学を学んだ。精忠組の一員として寺田屋事件に関与し謹慎を命じられるが、後に西郷隆盛に取り立てられ、藩主島津忠義から人馬奉行に抜擢される。戊辰戦争においては鳥羽・伏見の戦いで小荷駄隊を率いるなど活躍した。その後は藩政改革に参加し、民事奉行や日向都城の地頭などを務めた。この時の業績が認められ、大久保利通の計らいにより新政府に出仕する。


明治5年(1871年)、東京府参事。銀座煉瓦街建設の大任を果たしている[1]。後に教部大丞。明治7年(1874年)、酒田県令(現在の山形県酒田市など旧庄内藩を所管)[1]。明治9年(1876年)から明治15年(1882年)まで初代山形県令。明治13年(1880年)に那須野ヶ原に肇耕社(ちょうこうしゃ、後に三島農場)を開設。明治15年(1882年)1月から福島県令を兼任(同年7月より福島県令専任)。翌年10月より栃木県令。明治17年(1884年)に内務省土木局長(県令と兼任)。明治18年(1885年)に警視総監。明治20年(1887年)5月24日、維新の功により子爵を授けられた[2]




三島の墓(青山霊園)


明治21年(1888年)夏、警視総監在任中に脳溢血[3]に倒れた。そして同年10月23日、見舞いに訪れた多くの部下・友人たちに見取られ、この世を去った。葬儀には1万2千名が参列し、青山墓地に埋葬された。入院から死の当日までの見舞い客、葬儀・一周忌の参列者まで一人ひとりの名前が記録されている。



経歴



鶴岡県令


1874年(明治7年)に酒田県令に就任する。着任早々の課題は、ワッパ騒動と呼ばれる農民抗議への対策であった。これは、旧庄内藩時代からの県令や官吏が、明治政府の布告を無視して旧庄内藩時代同様の税と労役を課したことに対する農民の反抗であった。三島は官吏を全面的に更迭するとともに、農民に対しては弾圧で臨んだ。翌年、裁判により過納金を農民に返すことで騒動は決着した。なお、酒田県は1875年8月に鶴岡県へ改名された。



山形県令




山形県庁前を描いた高橋由一筆の油絵『山形市街図』


1876年8月21日に、鶴岡県、旧山形県、置賜県が合併され、現在の山形県が設置されると、三島は山形県令に就任した。山形県における政策の中心は、道路・橋梁整備と公共施設の建築であった。三島が山形県令になったときに、内務卿の大久保利通に県政の方針を問われ、第一に新たな道路を開いて交通の便を良くすることを挙げると、三島の主張を聞いた大久保は「あまり一時に大事業を行うのはどうか」と疑問を投げかけたが、三島の決断は堅く、大久保もそれを許したという[4]。江戸時代まで、現在の山形県、特に庄内地方(旧鶴岡県)は、日本海と最上川を経由する舟運により、江戸よりも大坂と強く結びついていた。しかし、明治時代に陸運が重視されると、陸路による東京までの交通整備が進められた。


三島は1876年に県内道路計画の告示を出し、総額14万5千円の工事金を地元負担とするように区長[注釈 1]に要請[4]。その予算のおおよそ半分にあたる9万5千円が山形から米沢を経て、当時日本最長になる栗子山隧道を掘削して東京に出る刈安新道に当てられた[5]。「土木県令」とあだ名されたのも、ちょうどこの頃からである[5]


1880年、米沢と福島の間に萬世大路(万世大路)こと栗子街道を、1882年には山形と仙台の間に関山街道を完成させた。この両道は、馬車が通行可能な規格で作られた。こうして山形県の産物が陸路で福島や仙台に出て、ついで奥州街道や鉄道による東京への輸送路が確立した結果、県経済は活況を呈した。三島は、他にも隣県に通じる車馬通行可能な道路をいくつも建設した。栗子山隧道(後の栗子トンネル)、関山隧道(関山トンネル)等のトンネル工事、多数の橋梁工事が行われた。また、羽州街道の須川に石造の常盤橋を作った。これらの道は後に国道13号、国道48号となり、トンネルや橋梁の代替わりやバイパス道路化を経ながらも、明治時代以降の物流の変化によく対応し[6]、現在でも県内の主要道路であり続けている[7]など、山形県内陸部の交通インフラ整備には成果を上げている。


建築では、県庁・病院・学校などを当時としては大きな規模で多数作った。現存するものに旧済生館病院本館(重要文化財)、旧東村山郡役所、旧東田川郡役所、現存しないものでは山形県庁舎、鶴岡の朝暘学校などがある。これらは擬洋風建築で建てられたが、作業に従事した棟梁たちがその後も形式を踏襲したため、東北地方には多数の擬洋風建築が存在することとなった。洋画家高橋由一は、これらの建築物や都市の景観を描いている。1878年に山形市を訪れた英国人女性イザベラ・バードも、著書『日本奥地紀行』で、近代的な山形市街に受けた強い印象を記している。これらのうち現存する建物・遺構は、経済産業省により近代化産業遺産に認定されている[8]



福島県令


1882年(明治15年)、自由民権運動を推進する自由党勢力が盛んな中通り(福島県中部)と会津地方(福島県西部)に福島県令として着任。運動の監視、沈静化に努めた。


三島は県令として越後街道、会津街道、山形街道の3つの街道(会津三方道路)の建設を推進した。しかし道路は完成したものの、既に陸運の中心が鉄道に切り替わっていたために街道整備は時代遅れになっていた。更に道路建設は地元住民に負担を強いたため、自由党との軋轢を強めた。


三島は帝政党を作って自由党に対抗した。自由党の首領・河野広中は激発を戒めたが、ついに福島事件で逮捕・投獄された。



保安条例


栃木県令時代(1884年)、自由党員が三島の暗殺を謀った加波山事件が起こる。


1887年12月25日、三大事件建白運動や大同団結運動など自由民権運動の高揚に対し、皇居付近から「危険人物」を排除する事を目的とした保安条例が勅令として公布されると、警視総監として即日施行した。当時の首相伊藤博文は条例に反対であり、内務大臣山縣有朋も消極的な態度であったものの、三島は条例を積極的に推進していたとされる。当条例の対象人物には尾崎行雄、片岡健吉、中江兆民、星亨などがいた。



那須野ヶ原の開墾


地方の開墾に熱意を示し、栃木県の那須野ヶ原に肇耕社(後の三島農場)を開設した。長男の彌太郎を社長、親交の深い部下14名を株主として入植者を募集して開墾に従事させた。現在の那須塩原市三島に別荘を構えた。当時の区割りが現在も残っており、古くからの住人には開墾当初の入植者の子孫が多い。近年設置された那須野が原博物館の敷地には、開墾に必須であった那須疏水も再現されている。



塩原御用邸の献上


栃木県令時代の1884年、三島は塩原街道を開発整備し、同時に塩原に別荘を構えた。1902年、皇太子時代の大正天皇が塩原を訪問した際に、三島別荘等に遊んで温泉や風光を気に入る。これを契機として1904年、三島子爵家は別荘を献上して「塩原御用邸」となり、主に避暑のため愛用された。1948年に厚生省所管の厚生施設として下賜され、現在の跡地は国立塩原視力障害センターとして利用されており、旧御座所のみ移築されて「天皇の間記念公園」(栃木県有形文化)として公開されている。



警視庁武術の振興


1885年(明治18年)、第5代警視総監に就任した三島は武術を振興し、武術家を警視庁武術世話掛に採用した。三島が在任中に死去するまでの2年10か月間に警視庁の武術は大きく飛躍したことから、警視庁武術の功労者といわれている。1888年、在職中に死去。



その他


1886年(明治19年)5月8日 - 叙勅任官一等、下級俸賜[9]



栄典




  • 1883年(明治16年)12月25日 - 正五位[10]


  • 1886年(明治19年)


    • 7月8日 - 従四位[11]


    • 10月20日 - 従三位[12]




  • 1888年(明治21年)10月21日 - 正三位[13]


勲章等


  • 1888年(明治21年)10月21日 - 勲二等旭日重光章[14]


親族



  • 夫人 和歌子[注釈 2] - 柴山権助の次女、柴山景綱の妹

  • 長男 彌太郎 - 第8代日本銀行総裁

  • 次男 彌二 - 豊澤家養子、警察部長を歴任(妻の姉の子は三島由紀夫)

  • 長女 園子 - 秋月左都夫夫人[15]

  • 二女 峰子 - 牧野伸顕夫人(牧野伸顕の娘雪子は吉田茂に嫁いでおり、従って麻生太郎は玄孫にあたる)。

  • 三女 竹子 - 日高栄三郎夫人[15]

  • 四女 鶴子 - 日野資秀夫人[15]

  • 五女 千代子 - 西村寅三夫人[15]

  • 六女 繁子 - 中村進午夫人[15]

  • 五男 弥彦 - 1912年開催のストックホルムオリンピックに日本初のオリンピック代表選手として参加。

  • 孫 通陽 - 第4代ボーイスカウト日本連盟総長



脚注


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注釈




  1. ^ 現在でいうところの町村長に相当する。


  2. ^ 『三島和歌子覚書』(尚友倶楽部史料調査室編、芙蓉書房出版、2012年)がある。



出典




  1. ^ ab武部健一 2015, p. 146.


  2. ^ 『官報』第1169号、明治20年5月25日。


  3. ^ 服部敏良『事典有名人の死亡診断 近代編』付録「近代有名人の死因一覧」(吉川弘文館、2010年)27頁

  4. ^ ab武部健一 2015, p. 147.

  5. ^ ab武部健一 2015, p. 148.


  6. ^ やまがた・明治の時代背景 -三島通庸と山形- (PDF) (岩田浩太郎・山形大学人文学部教授)


  7. ^ 特集「三島通庸と山形県」三島通庸が関わった山形の近代化産業遺産(山形県庁)


  8. ^ 特集「三島通庸と山形県」三島通庸が関わった山形の近代化産業遺産山形県庁ホームページ(2018年12月1日閲覧)。


  9. ^ 『官報』第854号「叙任」1886年5月10日。


  10. ^ 『官報』第176号「叙任」1884年2月2日。


  11. ^ 『官報』第907号「叙任及辞令」1886年7月10日。


  12. ^ 『官報』第994号「叙任及辞令」1886年10月21日。


  13. ^ 『官報』第1595号「叙任及辞令」1888年10月22日。


  14. ^ 『官報』第1595号「叙任及辞令」1888年10月22日。

  15. ^ abcde『平成新修旧華族家系大成』下巻、671-672頁。




参考文献




  • 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』下巻、霞会館、1996年。

  • 武部健一 『道路の日本史』 中央公論新社〈中公新書〉、2015年5月25日。.mw-parser-output cite.citation{font-style:inherit}.mw-parser-output .citation q{quotes:"""""""'""'"}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-free a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/6/65/Lock-green.svg/9px-Lock-green.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-limited a,.mw-parser-output .citation .cs1-lock-registration a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d6/Lock-gray-alt-2.svg/9px-Lock-gray-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .citation .cs1-lock-subscription a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/a/aa/Lock-red-alt-2.svg/9px-Lock-red-alt-2.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration{color:#555}.mw-parser-output .cs1-subscription span,.mw-parser-output .cs1-registration span{border-bottom:1px dotted;cursor:help}.mw-parser-output .cs1-ws-icon a{background:url("//upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/4c/Wikisource-logo.svg/12px-Wikisource-logo.svg.png")no-repeat;background-position:right .1em center}.mw-parser-output code.cs1-code{color:inherit;background:inherit;border:inherit;padding:inherit}.mw-parser-output .cs1-hidden-error{display:none;font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-visible-error{font-size:100%}.mw-parser-output .cs1-maint{display:none;color:#33aa33;margin-left:0.3em}.mw-parser-output .cs1-subscription,.mw-parser-output .cs1-registration,.mw-parser-output .cs1-format{font-size:95%}.mw-parser-output .cs1-kern-left,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-left{padding-left:0.2em}.mw-parser-output .cs1-kern-right,.mw-parser-output .cs1-kern-wl-right{padding-right:0.2em}
    ISBN 978-4-12-102321-6。



関連項目


  • 三島通庸関係文書


外部リンク


  • 国立国会図書館 憲政資料室 三島通庸関係文書











日本の爵位
先代:
叙爵

子爵
三島家初代
1887年 - 1888年
次代:
三島彌太郎












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