三島彌太郎
三島 彌太郎 | |
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生年月日 | (1867-05-04) 1867年5月4日 |
出生地 | 薩摩国鹿児島郡鹿児島城下高麗町上の園 |
没年月日 | (1919-03-07) 1919年3月7日(51歳没) |
出身校 | 駒場農学校 マサチューセッツ農科大学 コーネル大学(中途退学) |
前職 | 銀行家 |
称号 | 勲三等旭日中綬章 |
配偶者 | 大山信子 四条加根子 |
貴族院議員 | |
在任期間 | 1897年7月10日 - 1919年3月7日 |
第8代日本銀行総裁 | |
在任期間 | 1913年2月28日 - 1919年3月7日 |
元首 | 大正天皇 |
三島 彌太郎(みしま やたろう、慶応3年4月1日(1867年5月4日) - 1919年(大正8年)3月7日)は、日本の銀行家。子爵。三島通庸の長男であり、徳富蘆花の小説『不如帰』の登場人物、川島武夫のモデルでもある。
目次
1 生涯
2 親族
3 栄典
4 脚注
5 参考文献
6 外部リンク
生涯
薩摩国鹿児島郡鹿児島城下高麗町上の園(現在の鹿児島県鹿児島市上之園町)出身。7歳のとき東京神田の小川町学校入学、その後すぐに同人社分校に通い、9歳のとき近藤真琴の塾で学ぶ。13歳のときに山形県師範学校へ。15歳のときに同校を卒業し、17歳のとき駒場農学校に入学。18歳のとき成績首位により官費生として渡米、西フィラデルフィア中学を経てマサチューセッツ農科大学(現在のマサチューセッツ大学アマースト校)に入学し、農政学を学ぶ。同大学卒業後、コーネル大学大学院で害虫学を学び修士の学位を受けるが、神経痛を発症して退学した。
帰国後、1897年(明治30年)の第2回伯子男爵議員選挙で貴族院議員に当選し、桂太郎の後押しで最大会派研究会の代表者を務め、桂の主唱する鉄道国有化を実現させた。また議員生活の傍ら金融業に深く関与。横浜正金銀行頭取を経て、1913年(大正2年)2月28日第8代日本銀行総裁に就任。日本で初めての市中銀行の預金金利協定の成立にも尽力した。第一次世界大戦戦中戦後の激務をこなすも、1919年(大正8年)急病により現職のまま逝去した。
親族
三島彌彦は弟。最初の妻は大山巌の長女信子、離別後四条隆謌侯爵の三女加根子と再婚。長男は三島通陽、娘寿子の夫は阪谷希一、娘梅子の夫は土方与志。
栄典
1915年(大正4年)11月10日 - 勲三等旭日中綬章[1]
脚注
^ 『官報』号外「叙任及辞令」1915年11月10日。
参考文献
- 三島義温編『三島弥太郎の手紙―アメリカへ渡った明治初期の留学生』学生社、1994年
横田順彌『明治おもしろ博覧会』、西日本新聞社、1998年、168-171頁
外部リンク
第8代総裁:三島彌太郎 - 日本銀行- 国立国会図書館 憲政資料室 三島弥太郎関係文書
日本の爵位 | ||
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先代: 三島通庸 | 子爵 三島家第2代 1888年 - 1919年 | 次代: 三島通陽 |
ビジネス | ||
先代: 高橋是清 | 横浜正金銀行頭取 第8代:1911年 - 1913年 | 次代: 水町袈裟六 |
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