桶狭間の戦い
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桶狭間の戦い | |
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桶狭間古戦場伝説地(愛知県豊明市) | |
戦争:戦国時代 (日本) | |
年月日:永禄3年5月19日(西暦1560年6月12日) | |
場所:尾張国桶狭間 | |
結果:織田軍の勝利、今川義元の討死 | |
交戦勢力 | |
織田軍 | 今川軍 |
指導者・指揮官 | |
織田信長 森可成 河尻秀隆 佐久間信盛 千秋季忠 † | 今川義元 † 朝比奈泰朝 岡部元信 松井宗信 † 松平元康 |
戦力 | |
3,000 - 5,000(奇襲を実行したのは2,000) | 25,000 - 45,000(諸説あり。また織田軍に直接対峙したのはこのうち5,000 - 6,000人) |
損害 | |
不明 | 3,000余(信長公記、武徳編年集成) 2,500(落穂集、武徳大盛記) 3,907(改正三河後風土記)[1] |
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桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国桶狭間で行われた合戦。
2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の戦国大名である今川義元に対し、尾張の大名・織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、今川義元を討ち取って今川軍を退却させた。日本三大奇襲(日本三大夜戦)に数えられる、日本の歴史的に有名な戦いである。
戦後、東海道に君臨していた今川氏が没落する一方で、勝利した織田氏は美濃・伊勢侵攻から畿内の制圧へと急激成長し、戦国時代の重要な転機となった。
別名「桶狭間村・田楽狭間の戦い」。
目次
1 合戦の経過
1.1 合戦以前の情勢
1.2 合戦までの経過
1.3 桶狭間の合戦
1.4 合戦後の情勢と影響
1.5 参戦武将
1.5.1 織田軍
1.5.1.1 本隊
1.5.1.2 丸根砦
1.5.1.3 鷲津砦
1.5.1.4 善照寺砦
1.5.1.5 丹下砦
1.5.1.6 中島砦
1.5.2 今川軍
1.5.2.1 駿府城留守居
1.5.2.2 本隊
1.5.2.2.1 本隊先発隊
1.5.2.3 丸根砦攻撃隊
1.5.2.4 鷲津砦攻撃隊
1.5.2.5 鳴海城
1.5.2.6 大高城
1.5.2.7 沓掛城
1.5.2.8 清洲方面展開
2 合戦の実態をめぐる議論
2.1 今川軍の総兵力
2.2 義元の尾張侵攻の理由
2.3 合戦場と奇襲の問題
2.3.1 合戦場
2.3.2 奇襲
2.3.3 簗田出羽守の手柄
3 桶狭間の戦いを題材とした作品
4 脚注
4.1 注釈
4.2 出典
5 参考文献
6 関連項目
7 外部リンク
合戦の経過
- 文中の( )の年はユリウス暦、月日は西暦部分を除き全て和暦、宣明暦の長暦による。
合戦以前の情勢
15世紀末、駿河国守護の今川氏親は東海地方において勢力を拡大し、後を継いだ今川義元は駿府を本拠とし駿河・遠江に領国を形成する。また、甲斐国の武田氏[注釈 1]、相模国の後北条氏と甲相駿三国同盟を締結。西方の三河・尾張方面への領土拡張を図ろうとしていた。
尾張国では守護・斯波氏の家臣で清洲織田氏の家老である織田弾正忠家が成長。織田信定、織田信秀と二代に渡り領土を広げ、今川氏と三河・尾張両国の国境地帯の支配を巡って争うようになる。
西三河を支配していた国衆である松平氏が当主の相次ぐ横死で弱体化し、今川氏の保護下に組み込まれていったために、当初の戦線は松平氏の旧勢力圏をめぐって三河国内にあり、天文11年(1542年)の第一次小豆坂の戦いでは織田方が勝利するなど織田側が優勢であった。しかし、天文17年(1548年)の第二次小豆坂の戦いでは今川方が勝利。翌年、今川方が織田方の三河進出の拠点となっていた安祥城を攻略したことによって、織田氏の三河進出は挫折に終わった。
さらに天文20年(1551年)には織田信秀が病没、後を継いだ織田信長とその弟・信勝(後の織田信行)間で内紛が起こった。この結果、尾張・三河国境地帯における織田氏の勢力は動揺し、信秀の死に前後して鳴海・笠寺両城(それぞれ名古屋市緑区・南区)を守る山口氏が今川方に投降。加えて山口氏の調略によって尾張東南の大高城(愛知県名古屋市緑区大高)、沓掛城(豊明市沓掛町)の一帯が今川氏の手に落ちた。この4城は尾張中心部と知多半島を分断する位置にあった。愛知用水開通以前の知多半島は不毛地帯であったため、そこを押さえられても農業生産性および兵員動員能力では尾張の数分の一以下に過ぎない。しかしながら伊勢湾東岸を占める海運の要地であり、商業港である津島を支配し財政の支えとしていた織田家にとって、重大な脅威となっていた。尾張西南の蟹江城も今川方に攻略されており、伊勢湾海域の制海権が徐々に侵略されつつあった。
織田氏も今川氏の進出阻止や逆襲に動いた。1554年には知多の領主である水野氏を支援して今川方の村木砦を攻め落とした。笠寺城を奪還したほか、鳴海城の周辺には丹下砦・善照寺砦・中嶋砦を、大高城の周辺には丸根砦・鷲津砦を築くことで圧迫し、城相互の連絡を遮断した。
合戦までの経過
このような情勢の下、永禄3年(1560年)5月12日、今川義元は自ら大軍を率いて駿府を発ち、尾張を目指して東海道を西進した。5月17日(6月10日)、尾張の今川方諸城の中で最も三河に近い沓掛城に入った今川軍は、翌5月18日(6月11日)夜、松平元康(徳川家康)が率いる三河勢を先行させ、大高城に兵糧を届けさせた。一方の織田方は清洲城に篭城するか、出撃するべきかで軍議が紛糾していた。
翌5月19日(6月12日)3時頃、松平元康と朝比奈泰朝は織田軍の丸根砦、鷲津砦に攻撃を開始する。前日に今川軍接近の報を聞いても動かなかった信長はこの報を得て飛び起き、幸若舞「敦盛」を舞った後に出陣の身支度を整えると、明け方の午前4時頃に居城清洲城より出発[注釈 2]。小姓衆5騎のみを連れて出た信長は8時頃、熱田神社に到着。その後軍勢を集結させて熱田神宮に戦勝祈願を行った。
10時頃、信長の軍は鳴海城を囲む砦である善照寺砦に入っておよそ2,000から3,000人といわれる軍勢を整えた。一方、今川軍の先鋒松平隊の猛攻を受けた丸根砦の織田軍500名余りは城外に討ってでて白兵戦を展開、大将の佐久間盛重は討死した。鷲津砦では篭城戦を試みたが飯尾定宗、織田秀敏が討死、飯尾尚清は敗走したが一定の時間稼ぎには成功した。大高城周辺の制圧を完了した今川軍は、義元率いる本隊が沓掛城を出発し、大高城の方面に向かって西に進み、その後進路を南に取った。一方の織田軍は11時から12時頃、善照寺砦に佐久間信盛以下500余りを置き、2,000の兵で出撃。鳴海から見て東海道の東南に当たる桶狭間の方面に敵軍の存在を察知し、東南への進軍を開始した(但し、信長は中嶋砦まで進軍していたとする資料もある)。
桶狭間の合戦
正午頃、中嶋砦の前衛に張り出していた佐々政次、千秋四郎ら30余りの部隊は信長出陣の報に意気上がり、単独で今川軍の前衛に攻撃を仕掛けた。しかし逆に佐々、千秋らが討ち取られてしまう。義元は丸根、鷲津両砦の陥落に加え緒戦でのこの勝利に気を良くした。
13時頃、視界を妨げるほどの豪雨が降る。『信長公記』には「石水混じり」と書かれているため、雹だった可能性がある[注釈 3]。織田軍はこれに乗じて兵を進め、義元の本隊に奇襲をかけた。今川軍の総勢は2万人であったとされるが、義元を守る兵力は5,000から6,000人に過ぎずに、双方の戦力が拮抗した結果、大将同士が徒士立ちになって刀槍をふるう乱戦となった。
『信長公記』によれば、義元は輿を捨て300騎の親衛隊に周りを囲まれながら騎馬で退却しようとしたが、度重なる攻撃で周囲の兵を失い、ついには信長の馬廻に追いつかれる。義元は服部一忠を返り討ちにしたが、毛利良勝によって組み伏せられ、討ち取られた。『改正三河後風土記』によれば、義元は首を討たれる際、毛利の左指を喰い切ったという。
総大将であり今川家の前当主である義元の戦死により今川軍は戦意を喪失し、合戦は織田軍の勝利に終わった。
江戸時代に書かれたとみられる、名古屋市・長福寺所蔵の「桶狭間合戦討死者書上」によると、今川方の戦死者は2753人、織田方の戦死者は990人あまりだった。また、書上によると、近江国佐々木方(六角氏)が織田方に参戦しており、援軍の死者は織田方のうち272人を占めたという[2]。
合戦後の情勢と影響
今川家の実質的な当主の今川義元や松井宗信、久野元宗、井伊直盛、由比正信、一宮宗是、蒲原氏徳などの有力武将を失った今川軍は浮き足立ち、残った諸隊も駿河に向かって後退した。水軍を率いて今川方として参戦していた尾張弥冨の土豪、服部友貞は撤退途中に熱田の焼き討ちを企んだが町人の反撃で失敗し、海路敗走した。
大高城を守っていた松平元康(後の徳川家康)も戦場を離れ、大樹寺(松平家菩提寺)に身を寄せるがここも取り囲まれてしまう。前途を悲観した元康は祖先の墓前で切腹し果てようとした。その時、当寺13代住職登誉天室が「厭離穢土 欣求浄土」を説き[注釈 4]、元康は切腹を思いとどまった。そして教えを書した旗を立て、寺僧とともに奮戦し郎党を退散させた。以来、元康はこの言葉を馬印として掲げるようになる。こうして元康は今川軍の城代山田景隆が捨てて逃げた岡崎城にたどりついた。
尾張・三河の国境で今川方に就いた諸城は依然として織田方に抵抗したが、織田軍は今川軍を破ったことで勢い付き、6月21日(7月14日)に沓掛城を攻略して近藤景春を敗死に追い込むなど、一帯を一挙に奪還していった。しかし鳴海城は城将・岡部元信以下踏みとどまって頑強に抵抗を続け、ついに落城しなかった。元信は織田信長と交渉し、今川義元の首級と引き換えに開城、駿河に帰る途上三河の刈谷城を攻略し水野信近を討ち取るなどし、義元の首を携えて駿河に帰国したが、信近の兄の水野信元はただちに刈谷城を奪還したうえ、以前に今川に攻略されていた重原城も奪還した。
一連の戦いで西三河から尾張に至る地域から今川氏の勢力が一掃されたうえ、別働隊の先鋒として戦っていたため難を逃れた岡崎の松平元康は今川氏から自立して松平氏の旧領回復を目指し始め、この地方は織田信長と元康の角逐の場となった。しかし元康は義元の後を継いだ今川氏真が義元の仇討の出陣をしないことを理由に[注釈 5]、今川氏から完全に離反し、永禄5年(1562年)になって氏真に無断で織田氏と講和した(織徳同盟)。以後、公然と今川氏と敵対して三河の統一を進めていった。また、信長は松平氏との講和によって東から攻められる危険を回避できるようになり、以後美濃の斎藤氏との戦いに専念できるようになり、急速に勢力を拡大させていった。
桶狭間合戦では義元本隊の主力に駿河、遠江の有力武将が多く、これらが多数討たれたこともあり今川領国の動揺と信長の台頭は地域情勢に多大な影響を及ぼした。甲相駿三国同盟の一角である今川家の当主が討ち取られたことで、北条家武田家と敵対する勢力、とりわけ越後の長尾景虎(上杉謙信)を大きく勢い付かせることとなり、太田資正や勝沼信元らが反乱を起こすなど関東諸侯の多くが謙信に与し、小田原城の戦いや第四次川中島の戦いに繋がっていった。さらに甲斐の武田氏と今川氏は関係が悪化し、永禄11年末には同盟は手切れとなり、武田氏による駿河今川領国への侵攻(駿河侵攻)が開始される。信長と武田氏は永禄初年頃から外交関係を持っており武田氏は同盟相手である今川氏の主敵であった信長と距離を保っていたものの永禄8年頃には信長養女が信玄世子の勝頼に嫁いでいるなど関係は良好で、以後信長と武田氏の関係は同盟関係に近いものとして、武田氏の西上作戦で関係が手切れとなるまで地域情勢に影響を及ぼした。
参戦武将
織田軍
本隊
織田信長(総大将)
- 森可成
- 河尻秀隆
- 前田利家
- 柴田勝家
- 佐々政次
- 長谷川橋介
- 林秀貞
- 佐々成政
- 金森長近
- 池田恒興
- 佐脇藤八
- 毛利秀頼
- 岩室重休
- 簗田政綱
- 千秋四郎
- (今川義元を討ち取った者)毛利良勝
- (今川義元に一番槍をつけた者)服部一忠(通称:小平太)
- (敵首を討ち取った者)毛利十郎 毛利河内 木下雅楽助 中川金右衛門 佐久間弥太郎 森小介 安食弥太郎 魚住隼人
- 小姓衆 岩室長門守 長谷川橋介 佐藤藤八 山口飛騨守 賀藤弥三郎
- 出仕停止処分を受けていた前田利家だったが、森可成の導きでこっそり桶狭間の戦いに参加し敵の首を取った。
丸根砦
- 佐久間盛重
鷲津砦
- 織田秀敏
- 飯尾定宗
- 飯尾尚清
善照寺砦
- 佐久間信盛
- 佐久間信辰
丹下砦
- 水野忠光
中島砦
- 梶川高秀
- 梶川一秀
今川軍
駿府城留守居
今川氏真(今川家当主)
本隊
今川義元(総大将・前今川家当主)
- 松井宗信
- 朝比奈親徳
- 庵原之政
- 松平政忠
- 井伊直盛
- 朝比奈秀詮
- 庵原忠縁
- 松平宗次
- 蒲原氏徳
- 久野元宗
- 庵原忠春
- 関口親永
- 三浦義就
- 久野氏忠
- 藤枝氏秋
- 長谷川元長
- 由比正信
- 吉田氏好
- 一宮宗是
- 富永氏繁
- 岡部長定
- 江尻親良
- 斎藤利澄
- 飯尾乗連
本隊先発隊
- 瀬名氏俊
丸根砦攻撃隊
- 松平元康
- 石川家成
- 酒井忠次
鷲津砦攻撃隊
- 朝比奈泰朝
- 本多忠勝
- 本多忠真
鳴海城
- 岡部元信
大高城
- 鵜殿長照
沓掛城
- 浅井政敏
- 近藤景春
清洲方面展開
- 葛山氏元
合戦の実態をめぐる議論
桶狭間の戦いの経緯は上述の通りであるが、合戦の性格や実態については不確かなことも多く、さまざまな議論を呼んでいる。
今川軍の総兵力
今川氏には家臣団編成の実態を知る分限帳・軍役帳が伝存しておらず動員可能兵力を想定することは困難であるが、『信長公記』においては四万五千、小瀬甫庵の『信長記』には数万騎と記し、そのほか後代の編纂資料においては『甲陽軍鑑』には二万余、『武功夜話』には三万有余、『徳川実紀』『武徳編年集成』『総見記』などには四万余、『改正三河後風土記』は『信長公記』に基づき四万五千、『絵本太閤記』には五万余といった数字を記している。
現在一般的なのは、戦前の帝国陸軍参謀本部編纂『日本戦史 桶狭間役』にある二万五千であるが、近年には太田満明、橋場日月など、太閤検地による近世初頭の今川領の総石高を元に、二万五千でも多すぎると異論を唱える論者もいる。また、戦国大名の軍事行動においては対外勢力への備えとして相備衆を残存させることが一般的で、実際の合戦における兵力は最大動員可能兵力より少なくなる点も留意される。しかしながら、今川は甲斐・信濃の武田、伊豆・相模・武蔵の北条とは同盟関係にあり、一方で織田は美濃の斉藤とは敵対関係にあったため、この面では今川にとって状勢はかなり有利であった。
それに加えて、駿河・遠江・三河の3国のほか、尾張の南半分を押さえている今川は、尾張の北半分を押さえるに過ぎない織田とは、隔絶した差があったように思われがちである。ただし、上述の通り尾張の南半分は知多半島の不毛地帯であり、逆に尾張の北半分は濃尾平野の穀倉地帯であった。実際にはその支配領域から想像されるほどには農業生産性、ひいては動員可能兵力に差がある訳ではなかった。しかし、尾張の国力を信長の動員力と考えるのは適切ではない。信長が、同族を平定し、自らが擁立した尾張守護・斯波義銀を追放して尾張国の国主となったのは、桶狭間の戦いの前年に過ぎない。本合戦で信長に従って戦ったのは従来からの家臣たちであり、尾張統一の過程で信長家臣に組み込まれた者や国人・豪族たちは戦況を様子見するか、服部党の服部友貞のように今川方についた。このことからも、信長の動員力は非常に限られたものだったと考えられる。
いずれにせよ上記にあるように、義元の周辺にいて信長軍に直接対峙した兵力はせいぜい多くても5,000人程度であり、2,000人の精鋭を引き連れた信長軍と比べてそう大きな相手というわけでもなかった。もちろん信長の引き連れた2,000人も、その当時に信長が動員できる全兵力ではなく、一部に過ぎない。
義元の尾張侵攻の理由
この節には独自研究が含まれているおそれがあります。問題箇所を検証し出典を追加して、記事の改善にご協力ください。議論はノートを参照してください。(2009年5月) |
長らく定説とされてきたところによれば、今川義元の尾張侵攻は上洛、すなわち京都に入って室町幕府の政権を掌握するためだったと考えられた。幕末編纂の栗原信充の『重修真書太閤記』(嘉永5:1852~安政5:1858)では、義元上洛の記述が見える。
しかしながら義元は、今川家家督を継承してから長らく三河、尾張で漸進的に勢力を広げる戦いを繰り広げており、尾張をほとんど制圧していない状況で一挙に上洛を目指すという冒険的決断をしたとするには極めて難がある。更に、歴史的に今川氏が一時尾張守護を兼ねていた時期があり、尾張そのものに単なる隣国ではなく今川氏の旧領としての意識があった可能性が強い(尾張守護への補任)。
最近の研究では、尾張は今川一門今川仲秋(尾張守護)の守護任国であり、末裔の今川那古野氏(室町幕府奉公衆の今川氏)が那古野城を構えていた。義元の弟である今川氏豊は、この今川一門の家に養子入りし、家を継いだ。那古野城は織田に奪われ、そこで信長は生まれた。
信長は後に将軍・足利義昭を奉じて京周辺の支配や地方大名の紛争を調停する天下人の役割を間接的に担い、甲斐の武田信玄が元亀年間に行った西上作戦は上洛が意図されていた可能性が考えられているが[注釈 6]、当時の義元の置かれていた状況は大きく異なる。仮に信長が上洛の名分に利用したように、将軍やそれに準じる者からの上洛命令などがあったとしても、客観的な情勢と義元の従来の領土拡大の方針から見て、この軍事作戦が命令に従って行われたものとは考えにくい。実際、義元が永禄2年(1559年)に発行した出陣準備の文書にも「上洛」の文字はない。また、上洛が目的であるならば、事前に越前の朝倉氏や南近江の六角氏[注釈 7]などに協力を要請するはずであるが、そのような書簡も残されておらず、この当時将軍であった足利義輝と義元との間に何らかのやり取りがあったとする史料もない。ちなみに合戦の直前に、織田信長は僅かな供を連れて足利義輝に謁見するという形での上洛は行っている。
既に合戦以前の情勢の節で述べたように、当時の尾張・三河国境地帯では今川軍が尾張側に食い込んでいて優勢ではあったが、最前線の鳴海城と大高城の2城が織田方の城砦によって包囲されて危険な状態であった。したがって、実際には領土紛争の一環としてこの二城を救出しようとしたか、より大胆な意図があったとしてもせいぜい尾張の奪取程度が自然とするのが現在では定説となっている[3]。
久保田昌希は今川氏発給文書の分析を行い東三河の密度の濃さに比べて、西三河は密度が薄いとして、永禄3年(1560年)の出陣は西三河の確保が目的とする[4]。
埋め立てが進んだ現代に比べて当時は海が内陸に食い込んでおり、大高付近は船着き場でもあった。今川家は尾張での領土の確保・拡大だけでなく、東国と西国を結ぶ交易ルートであった伊勢湾の支配を巡り織田家と累代抗争していたとする研究も目立つ[5]。
また小林正信は義元の出兵を古河公方を推戴した三国同盟による室町幕府に対する挑戦とであったと捉え、上洛目的説を改めて提唱した。将軍・足利義輝を支持する長尾景虎が信長に続いて1559年に上洛したことにより牽制された義元の出兵は1年遅れ、迎撃準備を整えた信長により敗死。その後の景虎による関東出兵も、三国同盟に対する幕府の報復であると位置づけた[6]。
合戦場と奇襲の問題
桶狭間の戦いの本戦についても、根本的な「どこで、どのように行われたか」という点において議論となっている問題がある。
桶狭間の戦いの経緯については太田牛一『信長公記』、または『信長公記』を発展させた小瀬甫庵『信長記』において具体的に著述されているが、双方の記述には多くの相違が見られる。一般的には『信長公記』が記録性が強く、『信長記』は甫庵自身の史観による改ざんが見られ史料価値は低い[7]。ただし太田牛一も合戦の実情を直接見聞したという確証はなく、『信長公記』における桶狭間合戦も「天道」思想のもと義元の敗死を著述しており、牛一自身の史観が反映された著述であると考えられている。
合戦場
「どこで」、すなわち合戦の行われた戦場については一般に「桶狭間」という地名で知られており、特に近代以降「桶狭間の戦い」という名称が歴史学上で定着し、文部省の学校教育を通じて全国的に知られている。
「桶狭間」の地名は現在、行政的には名古屋市緑区の有松町(旧・知多郡有松町)に大字として残っており、この行政地名は江戸時代の桶狭間村を継承したものである。名古屋市内の「桶狭間」は東海道から南に離れた緩やかな谷あいで、ここから当時の街道沿いに西に進むと、合戦の前哨戦の行われた丸根砦を経て、今川方の最前線である大高城に至る。名古屋市内の「桶狭間」には、今川氏の家臣である瀬名氏俊が戦いの評議をしたとされる伝承地「戦評の松」など、桶狭間の戦いに関係すると主張される伝承地が存在する。
一方、名古屋市の有松町桶狭間からやや北東、東海道のすぐ傍にある豊明市には、「桶狭間古戦場伝説地」が存在しており、桶狭間の戦いの合戦地として著名である。ここは今川方の拠点である沓掛城と鳴海城を結ぶ合戦当時の東海道(鎌倉街道)からはやや南に離れてはいるが、鳴海城の方面に通じる谷筋の一角であり、また伝説地の一帯は奇襲に適すると思われる谷あいの地形である。ここには義元の墓が残っていることがかなり古くから知られており、江戸時代の記録(『守貞漫稿』)にも現れる。
ほぼ同時代の史料に基づいて合戦場を見ると、『信長公記』では今川義元は「桶狭間山」に本陣を構えたと記録されている。
「桶狭間山」の位置ははっきりとはわかっていない。延享2年(1745年)の大脇村(現・豊明市)絵図において大脇村と桶狭間村の境に図示され、天明元年(1781年)の落合村(現・豊明市)絵図において落合村と桶狭間村の境で前述大脇村絵図のものよりやや南に下った山として示されており、現在の豊明市の桶狭間古戦場一帯と名古屋市の「桶狭間」の間の山を指していたと考えられる。
一方、江戸時代に描かれた桶狭間の戦いの合戦図の中には、今川義元の本陣所在地として江戸時代当時の桶狭間村のあたりにある丘を図示したものが見られる。こうした絵図の中の「桶狭間山」が16世紀の太田牛一の認識と一致しているかは明らかではないが、「桶狭間山」は名古屋市内の桶狭間にある丘陵に比定する説もある。
また『信長記』には、今川義元が討たれた場所は「田楽狭間」であったと記されている。
田楽狭間の場所については、尾張名所図会には「田楽が窪を経て三河の堺川の前なる祐福寺へ入る」、「田楽が窪と言える野を行けば山立ち出るよしおどされて」、「あぶりたる山立ちどもが出であいて串刺しやせん田楽が窪」という一節が残っており、これに表される「田楽が窪」は現在も豊明市二村山周辺に大字として残っている。また本来、坪、窪とは窪地や深田である地内を表しており、これを素直に信じるのであれば、当時の鎌倉街道周辺の窪地はこの地を置いて他にないことになる。しかしながら、窪地や深田ではないが、江戸時代から昭和の頃まで名古屋市緑区の有松町桶狭間にも同様の字名が存在していたとされる地(現在の地番は緑区桶狭間北)があり、ここに比定される説もある。
以上のように、同時代の史料からは知多半島から伸びる山地と伊勢湾に繋がる湿地帯により形成された丘陵、緩やかな谷あいや窪地が錯綜したこれら一帯のどこかで合戦が行われたことが明らかになるものの、正確な合戦地の範囲、今川義元の本陣所在地、義元の戦死地などは完全には確定できない。何れにしろこれらの地形は、兵数の優位を押し下げ、また敵の発見を遅らせる効果を持っており、今川軍に対して不利に働いた。
静岡大学教授の小和田哲男は、「桶狭間山」の場所を豊明市の古戦場の南方にある標高64.7mの地点と特定し(この場所は周辺では最高点で、晴れの日には遠く鳴海城や善照寺砦付近まで見渡せるという。また、この場所からだと豊明市の古戦場跡は北の麓、名古屋市の古戦場跡は西の麓になる)、織田軍2,000と今川軍5,000がぶつかったのであるから、「桶狭間山」の麓一帯は全て戦場になったとみて間違いないとし、どちらの古戦場跡も本物であるとしている。小和田によれば、「おけはざま山」から沓掛城に逃げた今川軍が討たれたのが豊明市の古戦場で、大高城に逃げた今川軍が討たれたのが名古屋市の古戦場であり、さらに義元の戦死地に関しては『続明良洪範』という資料に義元は大高城に逃げようとしたとあることから、名古屋市のほうで戦死したのではないかとしている。
磯田道史が入手した「天保11年道中日記」(1840年。甲斐国八代郡南田中村(笛吹市一宮町)田中伝左衛門著)には「桶はざま。往来より左の方、半丁(54m)ばかり奥。今川義元公戦死の場所ならびに七将の墓、有」と記されている。また磯田によれば、明和8年(1771年)桶狭間古戦場に「七石表」という今川義元らの石碑が建立され、それを見たのではないかという[8]。
奇襲
「どのように」、すなわち桶狭間の戦いの本戦の様子については、おおよそ以下の2つの説にまとめることができる[注釈 8]。
- 「迂回攻撃説」
- 善照寺砦を出た織田信長は、今川義元の本隊が窪地となっている田楽狭間(または桶狭間)で休息を取っていることを知り、今川義元の首を狙って奇襲作戦を取ることに決した。織田軍は今川軍に気づかれぬよう密かに迂回、豪雨に乗じて接近し、田楽狭間の北の丘の上から今川軍に奇襲をかけ、大混乱となった今川軍を散々に打ち破ってついに義元を戦死させた。
- 「正面攻撃説」
- 善照寺砦を出た織田信長は、善照寺砦と丸根、鷲津をつなぐ位置にある鳴海城の南の最前線・中嶋砦に入った。信長はここで桶狭間方面に敵軍が行軍中であることを知り、その方向に進軍、折からの豪雨で視界が効かないうちに田楽坪にいた今川軍に接近し、正面から攻撃をしかけた。今川軍の先鋒は織田軍の予想外の正面突撃に浮き足立ち、混乱が義元の本陣に波及してついに義元は戦死した。
「迂回攻撃説」は江戸時代初期の小瀬甫庵作である『信長記』で取り上げられ、長らく定説とされてきた説である。これに対し「正面攻撃説」は信長に仕えた太田牛一の手になることから信頼性の高い『信長公記』に基づいており、また『信長公記』の記述は『信長記』と大きく食い違うことから、「迂回攻撃説」には現在では否定的な見解が見られる。
「迂回攻撃説」では、前提として今川軍が丸根、鷲津の勝利に奢って油断していたとされる[注釈 9]。「正面攻撃説」を取る者も信長があらかじめ情報をよく収集して(後述)、今川軍が油断しているところを義元の首のみを狙って一挙にしかけたのだというような見解を述べることがある。例えば、『信長公記』には「今川義元の塗輿も捨てくづれ逃れけり」(今川義元は塗輿を捨てて逃げた)という記述があるが、総大将の目印となる塗輿が義元のそばに置いてあったのだから、つまり義元が奇襲をまったく予期していなかったのだという見方がされる。油断した大軍に決死の寡勢が突入して撃破するという構図は劇的でわかりやすく、また桶狭間の織田方の勝利の要因を説明しやすい説と言える。
これに対して、今川方が油断していたと明確に伝える史料は同時代のものが少なく根拠に乏しい、常識的にいっても合戦に慣れた当時の武将達の1人である今川義元(あるいは今川方の武将たち)がそのような致命的な油断をするとは考えにくいという反論もある。例えば大久保忠教の『三河物語』では、義元が桶狭間山に向かってくる織田勢を確認しており、北西の方角に守りを固めていたということも書かれてあるように、同時代人には今川方が必ずしも油断して奇襲を受けたとは思われていなかったことは指摘できる[注釈 10]。
また、織田軍の「奇襲」成功の要因として、今川軍の情報を織田信長があらかじめよく収集していたという見解は非常によく見られる。その根拠として有名なのが、織田信長が桶狭間の戦いの後の論功行賞で、義元の首を取った毛利新助ではなく、今川軍の位置を信長に知らせた簗田政綱(天正年間に信長の有力武将として活躍した簗田広正の父とされる)が勲功第一とされたという、『信長記』等における逸話である。この見解は信長が戦争における情報の重要性を非常によく認識していた証拠として挙げられ、信長の革新性を示すエピソードとしてしばしば語られるところである。
しかしながら、『信長公記』の記述を全面的に採用する正面攻撃説の論によれば、信長があらかじめ情報を収集していたという見解にも無理があることになる。これによれば、既に触れたように今川軍が油断して守るに難い場所で休息していたとする前提が成り立たない以上、義元の居場所が一定している保証はなかったはずである。何より『信長公記』によれば信長自身、中嶋砦に入ったところで敵中に突出することを諌める家臣に向かって、敵は丸根、鷲津砦を攻撃した直後で疲れきっているはずであり、戦場に到着したばかりの新手の織田軍がしかければたやすく打ち破れるはずであるという主旨の発言をしている。
この記述を素直に信じるならば、つまり信長自身は桶狭間に発見した敵の軍を、沓掛城から出てきたばかりの敵本隊だとは思わず、大高城から出撃してきた敵軍の先鋒隊であろうと考え、これを一気に打ち破ってともかく劣勢を覆そうとしていただけだったということである。
すなわち『信長公記』を全面的に論拠とする立場によれば、結局のところ織田信長が一時の形勢逆転を狙ってしかけた攻撃が、偶然に敵本隊への正面突撃となったということになる。
一方、この説を考慮に加えて今川方の条件を考察すると、そもそも今川方は油断していたかどうかに関係なく、この戦いにおいて非常な悪条件が重なってしまったと考えられる。沓掛城から出てきたばかりの時点ならば、隊形も整っていなかったはずで、充分に準備を整えた新手に猛攻を受けたとするならば大混乱に陥り、壊走することはありうる。すなわち、桶狭間の戦いは今川軍にとっては不期遭遇戦であったと思われる。さらにこれに、戦闘前後の偶然の雨天と、地形が窪地あるいは丘陵であったために混乱すれば本隊が撤退しにくい、などという条件が重なる。つまり、信長から攻撃を受けて今川勢は混乱を来たし、そしてその混乱は一時撤退して立て直せば充分に収拾が可能だったのであるが、それを行う間もなく、運悪く今川義元本人や今川の有力家臣が討たれたということである。
以上の論点により、信長の奇襲とは地形的に選択され、計画的に行われた奇襲ではなく、タイミング上の奇襲であった、あるいは偶発的に奇襲になったのではないか、という解釈になる。このように『信長公記』を全面的に依拠する論によれば、桶狭間における織田方の勝利は、様々な条件が重なってもたらされた成功ということになる。
また、現在でもよく分かっていないことであるが、『信長公記』によると、信長本隊から佐々隼人と千秋四郎ら300人ほどの足軽隊が本戦前に今川軍に攻撃を仕掛けて敗退したという記述があり、これが何を意味するのかはまだ確定されていない(佐々隼人討死)。小和田哲男によれば、信長本隊の動きを今川軍にわかりにくくさせるための囮部隊で鳴海城をこの部隊に攻めさせて、「信長軍は鳴海城を攻める」と今川軍に思わせるための部隊であるという。また当時の合戦ではよくあったことだが、単に戦場に到着した信長の前で手柄を上げるために独自の判断で抜け駆けを行ったとの説もある。ちなみに、この部隊の中に若き日の前田利家もいたとの説もあるが、定かではない。
簗田出羽守の手柄
上記の通り、簗田出羽守の情報を元に奇襲作戦を行ったという説には疑問が持たれている。また、最初から奇襲作戦を行うとすればあらかじめ綿密な作戦を立てているはずであり、今川軍が休憩中・行軍中のどちらであっても奇襲は決行されたはずである。そのため、今川義元の休憩場所を通報した程度で勲功第一になるのは過賞といえる。
しかし、そもそも簗田出羽守が勲功第一になったとする記述は史料には存在していない。それどころか、敗者である今川家にはこの前後の感状が残るが、勝者である織田家には信長からの感状が存在していない。
簗田出羽守の勲功第一という表現に比較的近いものは、小瀬甫庵の『信長記』や『武家事紀』にある「(義元を討ち取った)毛利良勝に勝る殊勲とされた」とし、その報酬として沓掛を拝領したとする部分であり、勲功第一というのは桶狭間の戦いの後、それまで今川氏の領有であった沓掛を簗田出羽守が拝領したという事実から、後に行われた小説的解釈である。
ほかに、簗田出羽守が合戦前に偵察や地形の調査を行っていたとも言われているが(『武功夜話』など)、確実なものとはされていない。現代では武岡淳彦が軍事研究家の観点から詳細に構想している[9]ほか、小和田哲男が沓掛の土豪である簗田出羽守が地形などを把握していた可能性に言及している[10]が、これらにも史料的な裏づけはなく、簗田氏の本領は九坪であるとする説もある[11]。武田鏡村は「合戦の際には双方にいい顔をするのが地域小土豪の知恵」とし、義元本隊の場所を土豪が通報した相手として簗田の名を出している[12]。
また、中嶋砦の軍議で出撃に慎重な家臣が大勢を占める中で、簗田だけは作戦決行を強硬に主張して家臣団の消極論を封殺したとする説もある。だが、これも戦記物のような本には登場するものの、史料には見受けられない。
史料に残る事実は、桶狭間の戦い前までは今川氏領有の沓掛が、この戦いの後に簗田氏に拝領され、その領地になったということだけである。沓掛を拝領するような手柄を立てたことは確かであるが、それがどのような手柄なのかはわかっていない。
桶狭間の戦いを題材とした作品
- ボードゲーム
- 織田信長(バンダイifシリーズ)
- 信長風雲録(ツクダホビー)
- 信長の賭け〜強襲桶狭間〜(翔企画)
- 桶狭間合戦(ウォーゲーム日本史)
- 漫画
宮下英樹『センゴク外伝 桶狭間戦記』
- アーケードゲーム
戦国大戦 - 1560 尾張の風雲児 -(※初期バージョン)(セガ(現・セガ・インタラクティブ))
脚注
注釈
^ 甲斐国の武田氏は晴信(信玄)期に三国同盟を背景に信濃侵攻を行い、北信地域を巡り越後国の上杉謙信と川中島の戦いを繰り広げているが、信濃に拡大した武田領国は尾張の隣国である美濃に接し、武田と織田氏は永禄初年頃から外交関係を持ち始めていたと考えられている。
^ 太田牛一 「今川義元討死の事」『信長公記』より。「この時信長敦盛の舞を遊ぱし候。人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を得て、滅せぬ者のあるべきかとて、螺ふけ具足よこせと、仰せられ、御物具めされ、たちながら御食を参り、御甲をめし候て、御出陣なさる。」
^ 最近の研究では「地形的に奇襲ではなく、雨も止んでからの戦闘」だったともいわれている(詳細は#合戦場と奇襲の問題)
^ 浄土宗の教えであり、大意は「穢れた世の中は清浄な世の中に変えなくてはならない」。登誉は浄土宗徒でもあった元康に、この努めを果たすように説得したのである。
^ これは口実であって、氏真は当主の死で混乱する今川家中の安定化に力を注ぐことを重視し[要出典]、逆に元康は氏真体制が固まる前の自立を図った
^ 甲斐の武田信玄は元亀年間に信長・徳川家康と敵対し、反信長勢力を迎合した将軍義昭に呼応して大規模な遠江・三河侵攻を行っている(西上作戦)。西上作戦は従来から上洛意図の有無が議論され、近年は前段階の駿河今川領国侵攻も含めて武田氏の軍事行動が中央の政治動向と連動したものであることが指摘されている(柴裕之「戦国大名武田氏の遠江・三河侵攻再考」)。
^ 六角氏は、桶狭間の戦いで逆に織田信長に味方した史料が発見されている。
^ 作家の橋場日月は、両説を加味した上で新説として「正面攻撃+別働隊による背後からの奇襲」説を唱えている(出典:『歴史群像』2008年2月号 ASIN: B00117DNI2)
^ 義元は現地の百姓や村長から差し入れられた酒や食料で酒宴を始めていたとの説もある。
^ 但し、大久保忠教の生年は1560年であり、合戦に直接参加していたわけではないことに留意する必要がある。
出典
^ 小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』 学研〈学研M文庫〉、2000年、216頁、ISBN 4059010014
^ 桶狭間合戦で「信長・六角」同盟が存在か 2017年08月01日 - 『読売新聞』
^ 小和田哲男『今川義元 自分の力量を以て国の法度を申付く』ミネルヴァ書房<ミネルヴァ日本評伝選>、2004年、239頁、ISBN 9784623041145
^ 久保田昌希「戦国大名今川氏の三河侵略」(『駿河の今川氏』三集)
^ 橋場日月『新説桶狭間合戦 知られざる織田・今川七〇年戦争の実相』学研新書、2008年。服部徹『信長四七〇日の闘い 伊勢湾と織田・今川の戦略』風媒社、2008年
^ 小林正信『信長の大戦略 桶狭間の戦いと想定外の創出』里文出版、2013年
^ 谷口克広『検証本能寺の変』p27。
^ 『1840年 豪農の豪華な旅』「磯田道史の古今をちこち」読売新聞2015年7月8日朝刊17面
^ 武岡淳彦 『戦国合戦論』 プレジデント社、1981年、ASIN B000J800JY
^ 小和田哲男 『戦史ドキュメント 桶狭間の戦い』学習研究社〈学研M文庫〉、2000年、ISBN 4059010014
^ 谷口克広 『信長と消えた家臣たち』 中央公論新社〈中公新書〉、2007年、ISBN 9784121019073
^ 武田鏡村 『大いなる謎・織田信長』 PHP研究所〈PHP文庫〉、2002年、ISBN 4569578071
参考文献
橋場日月 『新説 桶狭間合戦―知られざる織田・今川 七〇年戦争の実相』 学習研究社(学研新書) 2008年
藤本正行 『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった―信長の戦い(1)』 洋泉社(新書Y) 2008年- 『新訂 信長公記』(大田牛一著,桑田忠親校注, 新入物往来社刊)
『尾張名所図会』 第五巻 桶狭間古戦場、1844年
関連項目
- 日本の合戦一覧
有田中井手の戦い(「西国の桶狭間」といわれている合戦)- 日本三大奇襲
外部リンク
- 桶狭間の合戦 ~1560年 永禄3年
桶狭間の戦い Shizuoka城と戦国浪漫- 桶狭間古戦場保存会
- 桶狭間の戦い広域マップ(名古屋市緑区役所まちづくり推進室・豊明市産業振興課編)
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